鎌倉殿の13人

「鎌倉殿」とはなにか

日本史の謎は「地形」で解ける

 

「鎌倉殿」とわざわざ地名をつけた尊称で呼ばれることになったのは、源頼朝が鎌倉に本拠地を置いたから、ですよね。

「鎌倉で一番偉い人=幕府の頂点=将軍」という図式で、直接名前を呼ばない通称として「鎌倉殿」は使われていたんでしょう。

「よりとも様」なんて、いくら親しくても呼んだりしない時代です。
時代劇とか大河ドラマだと、ものすごく気安く名前を呼びますけど、あり得ないんですよねこの当時。本名は簡単には明かさない、っていうのが通例です。

「本名を知られると、呪いに使われる」という常識もあるし、おそらく感じも、異字をわざと使ってたんでしょう。貴族が残した日記などには、人名が違う漢字で書いてあることがよくあります。それは、ちゃんと伝わってないのか、わざと違う字を使ってるのか…。

 

鎌倉には、鎌倉幕府があるよね

私たちはもう、1000年以上経ってから見てますから、「鎌倉幕府が鎌倉にあるのは当たり前じゃないか」くらいの気持ちで見ることができてますけど、当時、鎌倉?どこそれ?に?何?幕府?それ何?っていう感じだったと思います。

「幕府」という言い方はかなり後に便宜上、よく使われた言葉だそうで、江戸時代ですら、幕府を!幕府が!と言われ出したのは、幕末らしいのです。

幕府というのは「幕(まく)」による「府(役所)」ということで、「前線基地」みたいな意味なんですね。

朝廷は変わらず京都にあり、その将軍が遠征の先で作る本陣、みたいな。
そういう知識があったので、「幕府」と言うだけで「戦士たちの集合」というニュアンスも、含まれたんでしょう。

武士による、源家による全国統一を為そうとする源頼朝は、なぜ京都に接近しすぎず、情報も箱根で途絶しがちな相模・鎌倉を実質的な首都にしようとしたのか。

前傾の書『日本史の謎は「地形」で解ける』の竹村公太郎氏は、同著の中で、「頼朝が島流しになった期間が重要」だと指定しています。

鎌倉の堅固さ、地形が自然の要塞となっていることはよく知られていますよね。

「切通し」と呼ばれ、今でも利用されている、山の一部を切り開いた道。
逆に言えばそこを通らないと、緑深い鎌倉の山々は、攻め込もうとしても大軍勢が通れるようなものではなかった。

そして海。

平安時代には、現代のような「海からの攻め」が普通に考慮には入らないんですよね。
打倒した平氏や瀬戸内の海軍はあるものの、みんながみんな船を操って、陸戦と同じように戦術に組み込めるわけはない。他国へ攻め込める船を持ってる豪族なんてそうはいない。

その上、由比ヶ浜(鎌倉の前に広がる海)は遠浅で、たとえ攻めてこられても、当時の船が海岸近くまでは近づけず、そこそこの深さから鎧兜の兵士が歩いてジャブジャブ攻めてこないといけない。無理。そんなの無理。

鎌倉時代から400年以上経った江戸時代ですら、「渡航さえ制限すれば鎖国できる」と思ってたんですから。

この、「山と海」な地形が、鎌倉が首都になった理由、だと。

でも、それだけの理由なら、他にも候補地はあったはずです。

京都に近い、今の愛知県あたりとか、それこそ平清盛が作った福原(兵庫県神戸市あたり)とか。便利で政治に適し、情報も活発に交差する街。

実は、源頼朝は「伊豆に島流し」にされていましたが、絶海の孤島に隔離されていたわけではないんですね。伊豆半島のど真ん中あたりの、長閑で肥沃な場所で過ごした。しかも20年間くらい。

で、西側は駿河湾で、平氏の監視もきつかったけど、伊豆半島の東側、山越えしたら相模湾で千葉までイケイケ、自由に往来してたんだと。

千葉には千葉氏、三浦半島(神奈川県)には三浦氏という有力な豪族がいて、関係を深めていた。

そう言われれば首都・鎌倉は、伊豆〜千葉の中間点と、言えます。

「鎌倉」という言葉じたいがこの時代、「地域性」や「決意」や「独自性」や「武家の象徴」的なニュアンスを含んで、特別なものになっていったんですね。

関東の人らが全員「鎌倉なら納得がいく」と言える土地だった。

首都としては小さく、町として人口爆発にも耐えらえないはずの鎌倉を、政治の中心にしてやろうとした「鎌倉殿・源頼朝」は、何を考えていたんでしょう。

特殊な特権階級たる、「源氏」による封建政治の確立…でもそこにはまだ、京都・朝廷から賜る官位が必須の権威として依然、有用で、そこからじょじょに自由になっていくことで日本は、室町時代を経て戦国時代に入っていくわけです。

京都との距離感、は、近くなりすぎて滅亡した平氏とは違う、という意思表示そのものに映ったでしょう。

現代ですら「ちょっとネットの接続が悪いみたいです」でけっこう、逃げられることってありますから、1100年代に、「ちょっとよくわからないですけど、あ、そうですか」でかわせること、たくさんあったでしょうね…。

なんで鎌倉だったの??は今になって、何度考えても完璧な納得には至らない感じもあるんですけど、

・馴染みの地すぎる
・防御として完璧すぎる
・京都との距離感が意思を表明できすぎる

というところが理由としては挙げられる、ということですね。

そしてとうぜんのごとく、源頼朝の死後、「鎌倉殿」の地位は誰の手に…?ということに、なっていきます。

 

 







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どっちが偉いんでしょう???

けっきょく幕府はどこにある〜移転する御所〜

幕府と言えば鎌倉を指し、鎌倉と言えば幕府のことを言う、という状態に。

意外にサムライになることを許さない幕府

幕府はそれを却下します。

鎌倉殿の13人が始まる(まだです)!!

なんで13人も要るんだというと。

ホントに良い意味で「草」「燃える」、『草燃える』

最後の伊東祐之(いとうすけゆき)だけは、ドラマオリジナルのキャラクターだそうです。



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