マザコン男の見分け方…?
マザコンは母親の教育方法によって成る。例えば父親の鉄拳制裁の凄まじい教育方針で、マザコン男は出来上がらない。自分自身で選んでマザコンだと自称(自嘲)する人の中には、マザコンではない男性も混じる。マザコンでないからこそわざと「俺はマザコンだ」と言える場合があるのだ。しかしマザコン男のほとんどは、自称しない。マザコンは母親の「この息子のために一生、無限責任を負う」という身勝手で不可能な欲望に端を発し、生活や考え方の全てに及んでしまう。この教育(洗脳)の結果なので、成長した男性にどんな才能があろうと立派な地位を築こうと経済力が凄まじかろうと、母親との関係性において完成した性質としてのマザコンは揺らぐことはない。マザコンは、エピソードや例えば話で、登場人物として母親が常に存在する。話によく母親が出てくる男性は、ほぼ間違いなくマザコンである。
関西弁は第二の標準語…?
関西弁はお笑い芸人がテレビを席巻する中で、第二標準語のような扱いになって来ている。若い世代を中心に、お笑い芸人の真似をしながら日常会話に関西弁を盛り込んでいくのはもはや常套手段であり、責めるような事柄ではなくなったと言える。岡山県出身の芸人による岡山弁もその中心にあるが、やはり一度、活躍の場が大阪であったことは抜きがたく、「大阪経由の岡山弁」という位置付けになるような気がする。上方でほぼ全て作られた「笑いの偏重した落語」は江戸に移植された。江戸の「人情噺」には笑いがない(ゼロではないが必要がない)。面白いこと=関西弁の図式は、はるか江戸の昔から出来上がっていた。商人の街であった大阪は、おそらく商売人と客、その経済発展とともに、コミニュケーション過多であったと推察できる。そこから、「商用敬語」としての言葉と用法が生まれた。それが多々、現代においてさらに再利用されているのだから関西弁の使い勝手の良さ、極まれりである。
虚言癖にも功罪がある…?
嘘をつくにも種類やレベルがあるが、たわいない嘘やほぼ絶対バレない嘘など、人はたくさんついている。言葉に発して相手に伝えないもの・結果的に嘘なものまで含めると、嘘をつかない人などただの一人もいるまい。嘘はつき始めると、重ねることになる。レベル1の嘘を2つつくと、レベル2の嘘を3つつかないと辻褄が合わなくなってくる。それをどんどん重ねているうちに、レベル1の2つの嘘については詳細を忘れてしまい、相手の方がそれを覚えていると、レベルが上がったすべてがおかしく思えてくる。ついた方は気づかず、つかれた方は傷つく。それを繰り返しているうちに、嘘をつくこと自体に快楽を求めるようになる。そしていつしか、自分のついた嘘を本当だと自分で、信じ込んでしまうようになる。当然、人がつく嘘の虚実については判別できる能力が低下していく。そうして、一度貼られた「虚言癖」のレッテルは、なかなか剥がすことができなくなる。
おっさんの自撮りって実は…?
おっさんの自撮りは気持ちが悪い。下から上に向けたカメラに俯き加減で影になった真顔のアップで「新幹線なう」は気持ちが悪い。ダイエット報告も要らん。お前が何日で何キロ減かは人に報告せずに黙ってやれ。目標に達してからビフォアアフターを載せろ。などと思っていたら実は、おっさんが「ナニコレ」と言われてしまうような誰が見ても不快な自撮りを載せるようになるのは、多分に精神疾患の疑いがあるという。確かに、判断がつかなくなっているという、少し普通ではない状態だと言われたらその通りだと言える。最近はそこに動画も加わる。他人からの評価をまったく意に介さず、自撮り動画を次々にアップし妄想を語り続けるアカウントはたくさんある。あれも嘲笑するような対象ではない。それとは別に、「俺ってイケオジ」みたいな、髪を染めて日焼けサロンで焼いた肌の勘違い金持ちおっさん自撮りも、なかなかに気持ちが悪い。
心霊写真とか心霊映像は全部トリック…?
最初から、心霊写真は心霊が写っているものではない。その仕組みがわかっていなかった(写真のプロは知ってた)というだけのものだ。だからトリックではない。最近はデジタルカメラの普及により、以前のようなフィルムに起因する心霊写真は皆無になった。それでも空気中に浮遊するホコリが反射しただけのものを「オーブ」と呼ぶという人たちはまだまだたくさんいて、科学の進歩と迷信の払拭は必ずしも同時並行的に進んでいくものではないのだなと思わされる。心霊映像にしても、昔ならそれは怖いぞと思われたものも、今ではワンパターンの類に入れられてしまったり、エフェクト処理の同質性にうんざりされてしまうこともあったりするだろう。それでも、人間が人間である限り「恐怖の種は尽きまじ」であることは疑いない。その時代時代において、その時代に生きている人間だからこそ感じる恐怖というのは生まれ続けるし、そこを狙ってエンタメ化するコンテンツも、必ず一定の評価を得る。