ライドシェアしかないかもしれない
新しい産業が国に生まれる時、国が主導するが故に「失敗は許されない」状況が現れる。モメないような、綺麗な根回しと正確な談合が行われ、円滑かつ右肩上がりの成長が約束される。「リサイクル」もそうだし「エコ」もそうだし「洋上風力発電」もうそうだろう。3つ目は贈収賄がバレて瓦解し始めているが。タクシーの運転手が著しく減少するに従い、呼んでも来ない現象で利用者が困る。都市部と田舎地方、観光地とそうでない街、都邑(とゆう)と僻陬(へきすう)ではずいぶん事情が違うところもあるが、タクシー運転手の数はとうぜん人口に比例するので、地方では少ない運転手がさらに少なくなるのは確実だ。都市部で困るのは「移動」だが、田舎で自動車を運転できない高齢者は生命の存続に直結してしまう。それを救うには「タクシー運転手以外がタクシーになるしか」ない。それしか方法がない。ライドシェアが普及する際、利権が生まれ贈賄と収賄が生まれ、閨閥政治による汚職が蔓延り逮捕者が出たりもするだろうが、仕方がないと思えるレベルで必要になってくる。アプリで乗り場所・行き先・走行ルート・料金があらかじめはっきりし、価格交渉やルート変更などが入り込む余地がないサービスが、地方の高齢者を含む。ただ「便利なのってカッケー」などと口走る都会の経営者たち(たいていグレーっぽいセットアップでTシャツ、パンツは丈を短くしている)などどうでもいい。田舎の高齢者の移動手段として、ライドシェアしか根本的な解決方法がない。乗合バスを毛細血管のように毎日走らせるなど不可能だ。少なくなるタクシーを、現在の料金で毎日利用し続けるなど不可能だ。それに自治体が補助金を出し続けるなど不可能だ。ライドシェアしかない。電動キックボードなど、ケツを拭く役にも立たぬ。
鯉に餌をやるという孤高の行為
海抜の高い位置にある伝統的な古い神社の境内にある池で早朝、たった一人で鯉に餌をやった。「他のものを与えるんじゃねえ」という厳しい注意書きとともに餌の自動販売機が設置してあり、料金は100円だった。餌は、それ以外には利用のしようがない代物であり、大量に手に入れても転売の利かない脆さとオーラを纏っていた。いわゆる「モナカ」になっており、中に鯉の餌がコロコロと入っている。モナカを半分に割り、餌を数個ずつ池に放り込む。覗き込んだだけで数十匹の鯉たちは縁に終結し、飛沫をあげて争い始めている。向こうからはこちらがどう見えているのだろうか。手にしたモナカが見えているのか。水面に落ちた餌を、近い者が確実に一発でその口に吸い込んでいく。逃したものは翻転し、次にあるかどうかもわからない虚ろな獲物を探している。半分を投げ、鯉たちの反応を眺めていたが割とすぐに飽きる。残りの半分(モナカのまま)を、集まっている鯉たちのまったくいない池の奥の方に投げてみた。人の影を感じる縁に集まり水音を立てている彼らは、遠くに落ちた大物には全く気づかない。そんな中、ずっと気になっていることがあった。集まっている鯉の中に、まったくこちらに関係ない場所まで巡回するヤツがたまにいるのだ。人間の立っている位置から計算して、餌は流石にそこにはないだろう、というところを、クルッと探索する個体がいる。餌を口にする確率を上げるには、普通は「人間の立っている場所に最も近いところ」が特等席だろうし、それが最善の方法だろうと思うのに、だ。けっきょく、ものすごく遠く投げて、モナカの浮力で浮いている大物を見つけたのは、意味不明に見えた巡回をしていたヤツだった。ああして、無駄に見える行為が新たな発見や意外な利益を生むのだなぁ、などという、小賢しい教訓を得てしまった。よく公園で鳩に餌をやっているおじさんおばさんがいたりするが、まったく無関係で通りすがりの自分が、半ば無慈悲に与える餌に食らいついてくる小動物、という図式は、図らずも癒し効果があるのかも知れない、と思った。こんなことを考えているようでは癒やされているとは言えないかも知れないが。
感動しないといけないなんてことはない
感動ポルノ、という言葉は2012年、ステラ・ヤング氏が2012年にウェブマガジン『Ramp Up』の記事で用いたことを嚆矢とする。「ポルノ」はアダルトコンテンツを指すというのが一般的な利用法だが「視聴者の感情を無理やりに煽る」という意味を併わせ持つ。確かにアダルトコンテンツは「おいどうだ、興奮するだろ!?」という意図を最大限に高める形で作られている。食欲を誘発するコンテンツのことを「フードポルノ」だと言われてしまうと、もうメディアにはフードポルノだらけだと思えてくる。ステラ・ヤング氏は先天性の骨形成不全症を持つ身体障害者であり、彼女はTEDで「私は皆さんの感動の対象ではありません、どうぞよろしく」と題した講演を行なった。嫌なら見なければいい、と言われればそれまでだ。「感動ポルノ」は昔ながらの日本語的な言い回しで言えば「お涙頂戴」だ。日本テレビの「24時間テレビ」を謳った小学生の川柳は有名になった。「しなくても/いいことをして/泣いている」。確かに人間は、しなくてもいいことをしたって「頑張る」と泣いてしまうものだ。学校の部活だってしなくてもいいし、トーナメントなんてしなくてもいいし、勝者も敗者も作らなくていい。それをやるから「感動の涙」などというものが利用されてしまうのだ。こんなに頑張っているのに、これを見て泣かない奴は人間じゃない。そんな「感情ガイドライン」が生まれ、それに沿う形でビジネスが生まれる。誰がどう判断しても高校生の部活動でしかない野球部の全国大会を、まるで「新たな感動を生むためにやっている」かのように持ち上げ続けるのは、「ただ何も考えずに感情に左右される(感動する)人たちがいるから儲かる」というビジネスがそこにあるからだ。これは善悪の話ではなく「感動って、割と危険だよ」っていうことを知る上で大切なことなのである。演説をしながら泣いている政治家を支持する人たちってどういう人たちか…を思い浮かべれば、すぐにわかる。