鎌倉殿の13人

逢引の場所が晒されてるのはよく考えたらなかなかヒドい【伊豆山神社】

投稿日:

頼朝と政子

 

合い挽きとは?

合いびき肉:アイビキニク –
種類の違う食肉を混ぜてひいた肉のこと。 各種の肉の持っている栄養学的特徴や、風味、肉質などが、混ぜ合わせることで補い合う。

財団法人日本食肉消費総合センター
http://www.jmi.or.jp/info/word/a/a_005.html

逢引(あいびき)とは?

[名](スル)相愛の男女が人目を避けて会うこと。密会。江戸後期から使われ始めた語。「深夜に公園で―する」

デジタル大辞泉(小学館)
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E9%80%A2%E3%81%84%E5%BC%95%E3%81%8D/

逢瀬(おうせ)、とも言う。
逢瀬の方が、言い回しとしてはかなり先輩に当たるようだ。

逢引、はもしかしたらまず読み方を「あいいん」、つまり

【合い印】帳簿等を照合したことを示す印。

みたいなところからの連想でシャレで作られ、そこからさらに訓読みに発展させて使用された言葉なのかも知れない。

逢瀬、よりは逢引き、の方が庶民的というか、下世話な雰囲気が混じる感じがする。

基本的には密会が多いので、当人以外にはその場所が公(おおやけ)にされることはないが、はっきり「妻との逢瀬の場所だった」と書かれてしまっている場所がある。

それが「伊豆山神社」だ。

伊豆に流されていた源頼朝(みなもとのよりとも)は、ことあるごとに伊豆山神社に参拝し、阿闍梨である覚淵(かくえん)に師事していたという。
地理を知り人心を掴もうとし源氏再興を夢見ていた源頼朝だったが、無情に時は20年も流れてしまっていた。

地元の豪族・北条の棟梁である北条時政(ほうじょうときまさ)は、全国制覇を成し遂げた平家の勢力下で生きることにも大して疑問や不満はなく、伊豆国の目代に就任した山木兼隆(やまきかねたか)に、娘の北条政子(ほうじょうまさこ)を嫁がせることを決めてしまう。
実は山木兼隆も伊豆へ流された人間だったが、伊豆知行国主である平時忠(たいらのときただ・『平家にあらずんば人にあらず』を言い放ったとされる)によって、目代に任じられていた。

平家の勢いは平時忠をして「平家以外は人間じゃねえ」とさえ言わせるもので、地元の権力者になった平家ゆかりの者(中央の権力者がバックにいる)と姻戚関係になるのは、家を守る棟梁としてまったく正しい選択だと言える。

山木兼隆、伊豆に流され不平も不満もあっただろう。
言ってみれば「こんなクソ田舎で代官もへったくれもあるか」という感じだったと思う。
元は「山木判官平兼隆」という名前でもわかる通り「判官(ほうがん・はんがん)」なのである。五位の位階で「検非違使少尉」の役職についた者は「判官」と呼ばれる。源義経(みなもとのよしつね)と同じだ。

宮廷警護の花形だった彼が、猿や狸、それ同等の田舎侍が走り回るような僻地に飛ばされて自暴自棄になっていたことは想像に難くない。
横柄な態度もとっていただろうし、横暴なこともしていただろう。

そこへ娘を嫁がせることは、父親としてはどんな気分だったろうか。
しかし伊豆での円滑かつ盤石な活動を行うためには、中央とのパイプを太くしておくことは重要だったはずだ。
北条時政はその意味で、京からの情報収集を怠りなくしており、抜かりなく「コイツを押さえておけば良いのだ」というピンポイントを知っていたということになる。とりあえず源頼朝は無視されていた。

ところが、北条政子がそれを嫌がった、のだという。

なにせ貴族のおぼっちゃまである源頼朝は、地元の娘に次々に手を出していた。
北条時政が京に行っている間に、北条政子と恋仲になってしまっていたというのだ。

同じパターンが以前にあった。
伊東祐親(いとうすけちか)の娘と勝手に恋仲になり、妊娠させ子を産ませた源頼朝。
伊東の豪族であり、藤原氏の流れではあるが平家の世を生きる武士として、伊東祐親はこれを許さなかった。
なした子を殺してしまい、災いの種を絶った。
一族の平和と継続を血眼で求めると、血のつながった実の孫さえ災いの種に見えてしまう、厳しい時代だ。

しかしこれは、当時の当地の統治をする者としては当然の振る舞いだと言える。
源頼朝など、トラブルの元でしかない。
彼を殺した後、テキトーに「事故に遭いました」と報告して中央では「あ、そう」で済む程度のことである。

そうならなかったのは、まさに天の配剤としか言いようがない。
伊東祐親に殺されそうになった時、源頼朝は熱海の伊豆山神社まで逃げた。

「とりあえず」という感じでこれを助けたのも、北条時政だったが。

北条時政は、どこで「源頼朝サイド」に切り替えたのだろう。

山木兼隆が伊豆にやってきたのが1179年(治承3年)の初め。
目代に就任したのが同じ年の終わりごろだ。

北条政子は彼との縁談を異常に嫌がった。
そしてまた、伊豆山神社まで逃げた。

その後、源頼朝が挙兵するのは1180年(治承4年)の夏。
真っ先に標的にされるのが彼、山木兼隆なのである。
伊豆に来てから1年半くらいしか経っていない。
なんの罪を着せられて伊豆にやってきたかはわからないが、運が悪いとしか言いようがない。

ただし北条政子が逃げて…というあたりは、実際にはどうなんだろう?とは思う。
なぜなら源頼朝と北条政子の間の第一子、「大姫」と呼ばれる女児の誕生が1178年(治承2年)だからだ。

1179年に山木が伊豆に来た。
すでに源頼朝は北条政子に勝手に子を産ませていた(1178年)。
この子を、北条時政は殺さなかった。
その上で山木に嫁げと?そりゃ嫌がるだろうっていう感じではある。

のちに征夷大将軍となる源頼朝の振る舞い(勝手に娘を妊娠させて子を産ませた)を正当化するために、山木兼高との過去の縁談を捏造し「頑張ったけど無理だっただって北条政子が無茶苦茶なんだもん山木は悪いやつだし」というストーリーがのちに、作られたのではないだろうか。

それにしても、伊豆山神社へ逃げ去ることの多いこと。
そして逃げ込んでしまえばもう手出しが出来ない、という逸話の多いこと。
聖域として治外法権となり、地元の豪族の暴力さえいっさい受け付けないというサンクチュアリ。

源頼朝・北条政子、両人とも「助けられた」というリアルな体験から、この神社・神域・境内への尊崇はかなりなものになったようだ。

行ってまいりました。

伊豆山神社

境内から相模湾が見える。
伊豆山神社

相当に切り立った崖のある、海と山が近い地形。
2021年に発生した大規模な土石流。
まさに「熱海市伊豆山土石流災害」と呼ばれており、伊豆山神社はその横にある。

伊豆山神社はその後、天下を取った源頼朝によって「関八州総鎮護」という格式を得た。

「関東総鎮守」は箱根神社だ。
箱根神社

この2つは二所詣(にしょもうで)として鎌倉将軍が正月恒例の行事として行なうべき「聖地」とされた。
こういうところ、髻(もとどり)の中に小さい観音像を入れてたり、祈願して成就した恩を子子孫孫まで伝えようとしたり、源頼朝はすごく信心深く、義理堅い人物なのだなぁと思う。

ちなみに鎮守と鎮護はどう違うのか…。
「鎮護」は「鎮護寺」から来ているという説がある。

当然、明治になるまでは神仏混淆で、伊豆山神社は真言宗寺院の管轄にあったようだし、修験道の開祖・役行者が修行場として開いたという説まである。お寺であり神社でありその御利益は複合的であり祈念はそれらすべてに向けられていたのが日本の信仰というものだったのだろう。神社とお寺がハッキリ分かれている方が、不自然なのだ。150年しか経っていない。

「江戸総鎮守」である神田明神もそうだし、「鎮守」や「鎮護」は祀った人や周りの人らがそう決めてそうだと言い出したからそうなのであり、単なる「大袈裟な呼び名」だと言われればそれまでかも知れない。

本殿近くには、見事な絵地図が設置されている。

駐車場から本殿の境内までにはかなりな階段があり、なんと837段ある。
これを昇らなければならないのか…と思ったら「本殿横にPあり」の看板があり、急坂だが自動車で行ける。
助かった。
これを知るのと知らないのとでは、スタミナが837ポイント変わってくる。

本殿。

伊豆山神社略記

【御祭神】
伊豆山神 火牟須比命 ほむすびのみこと
天之忍穂耳命 あめのおしほみみのみこと
栲幡千千姫命 たくはたちぢひめのみこと
邇邇芸命 ににぎのみこと

【社格】別表神社
【例祭日】四月十五日
【鎮座地】本殿は、相模灘を一望に望む、海抜百七十メートルほどの地点
にあります。境内は歌枕に名高い伊豆の御山、子恋の森の一部
で、約四万坪の広さがあります。この場所は、かつて上宮と
呼ばれていました。参道の階段を下って海抜五十メートル弱の
地点には下宮の跡地があり、さらに伊豆浜に下ると走り湯があ
ります。伊豆の御山は、日金山や岩戸山に連なり、伊豆・相模
駿河の三国にまたがる広大な神域の要です。

【御由来】
○関八州総鎮護伊豆山神社は、かつて伊豆御宮、伊豆大権現
走湯大権現と称され、略して伊豆山、走湯山と呼び親しまれ
てきた、強運守護、福徳和合、縁結びの神様です。

○祭祀の創まりは遥か上古に遡り、現存する木造男神像(平安
時代中期、日本最大の神像)は、『走湯山縁起』が応神天皇の
御代に相模国大磯の海に出現し、仁徳天皇の御代に日金山に
飛来し祀られたと伝える伊豆大神の御神影をあらわしていま
す。

○その神威の源は、湧き出づる霊場「走り湯」です。走湯権現
とはこれを神格化した呼び名で、伊豆の国名は湯出づる神であ
る当社の神徳に由来します。

○神威を被るところは、沖合にうかぶ初島をはじめとする伊豆
の島々、伊豆半島、共に二所と呼ばれた箱根や、富士山に及
びます。後白河院御撰『梁塵秘抄』に、「四方の霊験所」のひと
つとうたわれたように、平安時代後期には山岳修験場として
名を馳せ、顕密神道を学ぶ名高い道場となりました熊野信仰と
も結びつき、全国に末社が祀られています。

○平安時代後期、この伊豆山に修行して富士登拝を重ね、富士
上人と呼ばれた末代上人は、鳥羽上皇をはじめ貴族と民衆に
勧進し、富士山に一切経を奉納する偉業を達成しました。
伊豆山から富士山につながる修行の道は、そののち平治の乱に
よって伊豆国に配流された源頼朝が、北条政子とともに当社に
深い信仰を寄せ、当社の加護のもとで平家を打倒し、鎌倉幕府
を樹立して征夷大将軍となるに至る、いわば東国王権神話と
も呼ぶべき歴史の舞台になります。
鎌倉将軍の参詣する二所詣の聖地となった当社は、威光を輝か
し、格別の尊崇を集め、戦国時代には後北条氏、江戸時代に
は徳川将軍も崇敬して興隆がはかられました。
武家が誓いを立てる時の起請文には、誓詞証明の社として
当社の名が必ず連ねられています。

○そうした神徳を讃え、鎌倉三代将軍源実朝が参詣の途に詠
じた和歌は『金槐和歌集』に収められています。
平安時代の女流歌人として名高い相模や鎌倉時代の阿仏尼も
参詣して百首和歌を奉納しました。その伝統は、仲秋の名月
に熱海市が主催する伊豆山和歌会に受け継がれています。

○明治維新の神仏分離令により伊豆山神社と改称されてから
も、伊豆大神の神威は絶ゆることなく、大正三年一月十八日に
は当時皇太子で荒れた昭和天皇、昭和五十五年九月十二日
には当時皇太孫で荒れた今上陛下がご参拝になられました。

○宝物
後奈良天皇辰筆『般若心経』一巻、古剣一振、男神立像
(以下国指定重要文化財)、伊豆山経塚遺物ほか、多数の
宝物を所蔵しております。

横に、見事な絵が飾られていた。

今から
四百五十年前
この地で
源頼朝、北条政子が
結ばれ
鎌倉の世が
はじまりました

伊豆山神社

なんという幻想的で、思慕の情が伝わってくる見事な絵でありましょうや。

これが実話かどうかなどはどうでもいい。結果がすべて。
この神社は「縁結び」の御利益があるとされ現在では人気となっている。
いや「関八州総鎮護」なんだから最初からその辺もカバーしてくれてるとは思うんだけど。

気になるのは、この絵にもある、二人が座っているベンチだ。
昔とは言え、岩に直接、何も敷かずに座ってるな…痔になるよ!??

それが、これなのである。

頼朝・政子腰掛け石
伊豆の蛭ヶ小島に配流されてい
た源頼朝侯は、当伊豆山神社を
崇敬した。
当時、頼朝と政子が恋を語らっ
たのがこの境内であり、当社で
二人はむすばれ、伊豆山の神様
の力により鎌倉に幕府を開き篤
い崇敬を当社に寄せました。

伊豆山神社

いや、うん、そうなんだろうけど、たとえば

当時、タロウとハナコが恋を語らっ
たのがこのラブホテルであり、
401号室で二人はむすばれ、
ホテルの神様の力により鎌倉に幕府を開き

とか書かれたら本人は嫌だろうなぁと思うんだな。

「逢引きの場所だった」とか「ここで二人は結ばれた」とか、よく考えたらなかなか下世話なことが知られているものだ。

どうぞお座りになり
いにしえに思いを馳せ
その時代(とき)を感じてください

と書いてある。

妙なことを想起するのも怖いので、今回は遠慮した。

伊豆山周辺を散策、ハイキングするのに便利なマップも設置されていた。
なかなかの急勾配なのでそれなりの覚悟と準備は必要だと思う。

このマップ内の、「現在地」を見てみると…

猫が日なたぼっこをしてるよ…???

確かに、してた。

 

 







-鎌倉殿の13人
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