遅刻、への舌打ち
「南国時間」などと、沖縄や東南アジアなどの地域の人らについて呼ばれることがある。「約束の時間になったら家を出る」のような、ルーズな時間感覚のことだ。地域や国によって、文化的な側面も加味して語られることも多い。つまり「時間にきっちりな文化は、脅威に立ち向かうためのベネフィットとして醸成されていった。ルーズな地域はその逆」というようなものだ。電車のダイヤなどに代表される厳正な時間感覚と「約束厳守」のルール作りは、災害や戦争の脅威から集団を守るために優先されていったのだ、と。なんだか温かい国々が脅威にさらされてなかったかのようなそんな論説は、にわかには信じられない。現実的には今、同じスピードで進む時計を使っているわけだから、どこの地域の人とどんな約束をしようが時間を守らないことを、歴史的・文化的な側面で正当性などできようはずがない。遅刻する奴はする、言い訳として文化的バックボーンを持ち出して甘えているだけ、と言えてしまう。
汚い食べ方、への舌打ち
目の前で、食べカスを床に落とし残り汁をテーブルに吐き捨てるような、そんな食べ方をされたら幻滅するか。それはもう幻滅というより絶望に近い。仲良くなれる気がしない。食べ方の異常に汚い人が、「食べ方だけが汚い」なんてことはあり得ないからだ。ゴミ屋敷のような汚部屋に住んでいる人が、「いい加減なのは部屋掃除だけ」なわけがない。もちろんなんらかの疾患も疑われる。が、箸の上げ下ろしがデートで気になるまたはそれで嫌いになるなどというのは、そもそも仲良くなろうとする気持ちが薄いのではないか。箸の上げ下ろし程度であれば仲良くなってから指摘して直してあげれば良い。自分に「相手を査定する側だ」と思い上がった気持ちがあるからこそ、食べ方やマナーが異常に気になるのであり、そんな程度のことを考えているから、自分がどこで嫌われているかがわからないままなのだ。綺麗に食べることに越したことはないが、食べ方をやたら気にし過ぎることはない。
新聞、への舌打ち
読者層が高齢化し、字を大きくする傾向にある新聞。面積を大きくしたりページ数を増やしたりはしないから、情報量は減ることになる。それでも図解やイラストを使えば、内容の理解度は維持されるのかも知れない。新聞の戸別配達は、新聞各社が読者数を維持するために必須だと思う。家の郵便受けに毎朝投函してくれないのであれば、新聞を読む習慣は著しく減少するだろう。4900円を払いつつ「毎日最寄の新聞取扱店舗まで取りに行く」ことはあり得ない。逆に考えると毎朝の配達代が含まれているとしたら、5000円弱(約163円/日)の新聞は安いとすら言える。安いのならみんな、もっと紙の新聞を定期購読するべきではないのか。1997年に5,376万部あった発行部数は、2022年には3,084万部になった。WEB媒体に移行したことは大きい。新聞社も紙だけでやっているのではないし、紙の新聞の行末をもう見切っているはずだ。新聞が衰退するのは、紙かWEBかの問題ではない。中身に対する人気がないからだ。紙の部数が減れば当然、配達する人の仕事もなくなる。
下ネタ、への舌打ち
下ネタはダメです!と拒絶し、ちょっとそういう話題になったら涙ぐんでいる若い女性がいた。当然その感情はその現場では優先され、それ以降、下ネタは避けられるようになった。数年後、その女性は結婚し、自分からゲハハと率先して下ネタを発するハッスル女性になっていた。下ネタ忌避などそんなものだし、経験が伴えば涙ぐむほど嫌だという感情はすっ飛んでいってしまう。その程度のものである。酒の席で下ネタで盛り上がっていることを、本当の盛り上がりだと勘違いしてしまう酒飲みの人たちは、下ネタを禁じられる公の場では無力化される。なので、人前で無力化されている、または手も足も出ない感じになっている「おもしろいつもりの大人」を見ると、ああこの人は飲み屋で騒いで、ウケてると勘違いし続けてこんな皮膚感になってしまってるんだな…とほのぼのした気持ちになってくる。
おっさん、への舌打ち
おっさんは何もしなくてもおっさんだし、オヤジはどう工夫してもオヤジでしかない。なのでわざわざ、自分たちの活動名に「おっさん○○」とか「オヤジ○○」などとつける必要はない。なのに、世の中にはたくさんある。それは「おっさんだけど頑張ってる」という大義名分に「モテなくても失敗しても、まぁおっさんだから許してね」という言い訳が隠れている。若者とは真っ向勝負をしない、若者には勝てないことの言い訳を最初から用意しているのだ。権力と財力を得たおっさんは、権力と財力ではどうしようもない部分に対して「いやぁ君らは若いねえ。わしらはもうおっさんだから」とあくまで上から目線の言い訳を用意している。「負けない戦い」と言えば様子はいいが、先回りして言い訳しているだけの、みっともない話なのである。