相談と行動と感情と
相談をされた時、解決策を考案しながら聞くことがある。相談が終わる時、解決策をすぐに提示することができる場合もある。だが待つべきだ。人間は自動販売機ではない。相談する方は、すぐに値段相応のジュースが欲しいと思っているわけではないのだ。「相談する」という行為そのものに大きな意味があり、人によってはそちらの比重の方が大きい。自分で解決法を考えつき、自分で行動し、自分で解決できるなら相談には来ない。だが解決法を教わっても行動できるかどうかはわからない。まずは相談事に対する自分の感情に、納得感が出ないといけないのだ。それは不満であったり義憤であったりもするだろう。その感情が慰撫されない限り、問題が解決したとしても納得が出来ないのである。感情の問題はそうとうに難しい。ただただ愚痴を聞いて欲しいのなら最初からそう言って欲しいものだが、相談する側は「相談をする」という体裁でありたいと願うものなのだ。
遅刻と遅刻魔と許容と
理由のない遅刻はない。どんな理由も理由ではあるが、その理由が許容されるかどうかが問題なだけだ。公共交通機関が気象条件によって遅延したことによる遅刻、というのはたいてい許容されるが、許容しない人にとっては「そんなことまで前もって想定しておけ」ということになる。この場合の「そんなことまで」とは社会的に大きな影響のあることを指すが、個人的にかなり小さなことまで想定できずに暮らしている人が、遅刻魔になる。目覚ましアラームを何個もかけたり、そもそも時計の針を常時10分早く進めている人なども、遅刻魔になりがちである。時計を10分進めても「あの時計は10分進んでいる」と認識しているのだから強い意味はない。絶対に遅刻しない人はそんなことをしなくても遅刻しない。遅刻魔は「自分が遅刻したって何も変わらないんだし」という成功体験で、自分の価値を自分で落としている。
冷たさと厳しさと優しさと
厳しさは、それが厳しさだったとその時には気がつけない。冷たさとの区別がつかないからだ。厳しいと認識が出来るのは、その冷たさ(のように見えていたもの)が、のちに自分の役に立ったと思えるからこそだ。信頼度によって、あの冷たさは実は厳しさなのだと予見される場合も多いが、それものちに、冷静な視点で振り返ることができる立場になった人にだけ許される判断の熟成だ。逆に、優しさこそ冷酷である場合がある。その場で優しくとも、優しいがゆえに自分に甘いことになってしまい、振り返ることができる立場には成長できず、あれが冷酷な処置だったのと判断ができないからだ。これらの区別はたいてい後付けなので「優しさとしての厳しさ」のみが美談としてのみ現れてくることの方が多く、厳しさの厳しさ、または優しさの冷たさについては個別にすべてややこしいので語られることは少ない。
面白い人と面白くない人と独特な人と
「ドチャクソ」などという語句を平気で使ってる連中が面白い人であるわけがない。言葉への敏感さ・言語への興味・その表現の微妙さこそが、面白さの極意だと思う。喋る仕事や笑わせる役割の人でなくとも、面白い人は表現が独特で、必ずしも饒舌であるとさえ限らない。目の前にある事象に関する感性が外側に跳ね返る時、その表現が独自性を帯びる。流行の、テレビでやってた言葉をそのまま、自分の生活に滑り込ませて流用しているだけの連中が、面白い人であるわけがない。独特のリズムを無意識に感じて生きている人は、その表現に独特の「間」がある。表情ひとつ、所作のそれぞれにその「間」は顕在化し、それがまた新たな波紋を周りに起こすことで、面白さを作る。面白くない人はまず「面白い」と感じる対象が面白くない。
キモくないオッサンとキモいおっさんと若い高校生と
キモくないオッサンなどいない。オッサンはすべからくキモい。キモいからオッサンだと呼べる。白黒でないパンダなどいない。白黒だからパンダだ。稀に真っ白のパンダも生まれるが、オッサンについてそのレベルの特例の話をしても詮方なきことである。それは「高校生は若い」と言っているのと同じで、考えても仕方のないことだ。例えば「若くない高校生になる」ことで達成されることは何か。若い高校生が達成することと同等である。キモくないオッサンを目指しても、キモいおっさんが達成すべきことと目標は同じなのだ。「キモくないオッサン」などという空想上の生き物を探したり目指したりしても意味はない。オッサンにキモいかキモくないかの判断基準を当てはめようとすることそのものが、「まだジジイでもないし、若い女にモテたいんだよね〜」という目論見の表れであり、それ自体は銀河系の基準を0.1秒当てはめてみてもキモい。