たられば、とやら
歴史上の事実に「たられば」を挟み込んでそこからの展開を想像して楽しむ、という娯楽はかなり昔からある。カエサルが殺されていなければ。織田信長が本能寺で死んでいなければ。実は徳川家康が関ヶ原で死んでいたら。これらは史実が確定的であるがゆえに起点から派生する無数の可能性から一つを選ぶことで物語として進行させることができる空想だ。流行している「異世界転生もの」には転生する先に確定的な史実「らしきもの」しかなく、転生する前の行く末も当然定まっていないので、両方ともが揺らいでいる。そのぶん、奇想天外で自由度は高いが起点が最初からあるようでないゆえに、どうしても恣意的に荒唐無稽な物語が進行しているように見えてしまう。たらればはその後の進行ではなく「そこにあった選択肢」に思いを馳せることこそが、正しい楽しみ方なのかも知れない。
YONDR、とやら
コンサート会場に、スマホ禁止ゾーンを自動的に作り出すスマートフォンケースがYondrだ。入れておいて設定エリアに進むと勝手にロックがかかって、取り出せなくなる。退場時はその逆だ。ケースに入れていないスマホは自由に使えてしまうので、2台目があればケースも2つ配布されるのだろうか。10台持っている場合はどうするのか。そもそもコンサート中にスマホを10台ぜんぶの確認をする人はいないだろうからそこまで考える必要はないのか。その機能に対する期待というよりも、そこにいる観客数十人〜数万人が「スマホ禁止ゾーンを自動的に作り出す」という企画に乗っかっているという一体感が生まれる気がする。スマホは自分自身と世界との直接的な関わりを強化し、「個」の役割を意識させるものだから、それが完全に遮断される時、そこに生まれる「公」の感覚に新鮮味を感じる可能性がある。その実験に参加するという意味で、Yondrには大きな価値がある。
喧嘩を売られる、とやら
喧嘩売ってんのかこのやろう、ナメてんのかこのやろう、バカにすんなよこのやろう。これらすべて、「そういう場にいるからそうなる」ことに過ぎない。喧嘩売られた、ナメられた、バカにされた、これらを感じるのは、それをする人と、それをされる人(自分)が同じステージにおり、距離も近く、価値観や思考の軌を一にしていることが原因だ。それぞれが乖離し、隔絶し、優劣や序列が完全についている場合、喧嘩を売られることはない。小学生は高校生に喧嘩は売られないし、その逆もない。ボクサーは力士にお手合わせを願わないし、鮎は鮎としか縄張り争いをしないし、寿司とラーメンは同じランキングで勝敗を決しない。そんな場所にいるから喧嘩を売られるのだ。そんな相手とからんでいるからナメなられたと感じるのだ。そんな活動してるからバカにしてると思うのだ。自分の立ち位置しか自分では選択することはできないので、自分の「場」について、常に検証することはとても大切なことである。
規則正しい生活、とやら
規則があり、それに沿うからこその「規則正しい生活」だ。まっとうな人間は規則正しい生活をすることこそがその証明であり健康や成功や充実にはそれが欠かせないとさえ言われているかのような世間で、我々は生きている。しかしその「規則」とはいったいなんなのか。誰が定め、誰に守るべき強制力を付加されたものなのか。それは組織や団体に属するからこそ発生する個人への順守義務のようなもので、自分が自分のために定めた規則ではない。規則性のある生活は、なんらかの「考えずに済む力」をひねり出す。ひねり出された「考えずに済む力」は思考力にスペースを生み出すので、その余力を「他人の考えた規則に従うこと」に使わせることが出来るのだ。自分で考えた規則が「不確定で不安定な生活」なのであれば、それに従うのが「規則正しい生活」なのであり、これを聞いて「何を言ってるんだ」という顔をするのはたいてい、いやいや他人の規則に従って「健康や成功や充実のために」と嘯いている人らである確率が高い。
幻滅、とやら
幻滅は良いことだ。マボロシが滅しただけだ。最初に、天衣無縫な幻影を見る方がおかしい。それが崩れ去ることを幻滅と呼び、本来の姿を表した責任をその本人にかぶせるかの如き言いようをするのは、勝手で自己中心的だ。早めに幻滅してしまえばいい。話はそこからだ。幻滅する可能性は、最初に潰しておくのがいいのかも知れない。「こうであってほしい」という勝手な思い込みは、初期にはそれが勝手なものであるとわかっているつもりでも時間が経つとその幻想が現実の一部に組み込まれてしまい、幻滅の材料になってしまう。勝手な思い込みは常に自動生成されるもので、その理由は「よく知らないから」なのだという根本原因を忘れていることにある。「熱愛発覚」「電撃結婚」「そのお相手は…」に幻滅するのは、その人の生活や好みや人生観について、1ミリも知らなかったことの裏返しに過ぎない。知っていると勘違いしているのは「商売上の顔」「表向きの情報」「店先のディスプレイ」なのである。何にでも幻滅する権利はあるが、幻滅を防ぐ手立てを講じる義務は相手にはない。幻滅を補償しろと叫ぶのは、単なる幼稚の極みだ。