人を呪わば穴二ッつ!
他人を貶めたり悪い感情を持ったり呪ったりすると、自分用の墓穴が開く。相手の穴もちゃんと開くんかい、と短絡してはいけない。他人用の穴を掘ると、他人用だと思ってた穴が自分用の墓穴になってしまう。相手にはなにも起こらず、自分だけがその穴に堕ちる。つまり穴は一つだ。二つの穴は、重なっているのだ。心の持ちようで、他人を呪えばそれが自分に即・降りかかってくる。悪いことを考えることは、悪い言葉を口に出すより悪い。言葉を発するには発声のための呼吸や喉の振動などの動きが必要だが、悪い考えはたとえ発声と同じ時間であっても数十倍、多く考えることができる。低カロリーで数を稼げる。バレないので繰り返してしまう。こちらの方がいけない。「他人への悪意については考えない」が正しい。
アガらない方法なんてあるのか!
緊張はしすぎるとしくじる。しかし緊張感は必要である。なんのために必要か。それは「緩和させるために」である。有名な「緊張の緩和」。稀に「緊張と緩和」と書いてあるものもあるが、内容を言い表す上でそれはおかしい。「緊張」「緩和」と語句を並べているだけで、両者の関係について説明できていないからである。「鬼滅の刃」と「鬼滅と刃」では意味が違うのと同じだ。緊張感を持って現れ、取り組もうとする人を見ると、見ている方も緊張する。その緊張を、発する文言で緩和させることができる。主導権はこちら(話す側I)にあるのだ。そして場の緊張感は、沈黙や、目線や、手の動きなどで、新たに作り出すことができる。すなわち「緩和のチャンスを創出する」ことが可能なのだ。その点で、緊張感は貴重な材料である。緊張しすぎると行いそのものが崩れるが、緊張をうまく緊張感に薄め、引き延ばし、利用することが重要である。
気をつけないと間違えがち!
軽作業の工場でバイトをしている時、不良品の袋を開けて、中身を再利用するために仕分けをする作業があった。片方(外装)をゴミ箱に入れ、再利用する中身を箱にどんどん入れていく。ハッと気づくと私は、外装を箱に入れ、中身をどんどん捨てていた。いつから逆転していたのか、大体はゴミ箱に捨てた量を見ればわかった。ナイフとフォークを、ナイフ入れ、フォーク入れにそれぞれ分けて行く。カチャ、カチャンという音と共に進む。たぶんチンパンジーでもすぐに覚える単純な作業だ。気づくと、フォーク入れにナイフが、ナイフ入れにフォークが入っている。これは音がするだけに、すぐに気づいた。なぜこうなるのか。一瞬でも作業以外のことを複雑に考え始めると、手は動いたまま、反対になってしまう。電車のレールを違う路線に分岐させるように、どこかでスイッチが入ってしまうのだと思う。今でも気をつけていないと単純作業はそうなる。集中していれば大丈夫なので、生活に支障は一切出ていない。
面白さとはなんだ!
「緊張の緩和」などの論理は、「言うなれば」であって、その論理に沿って何かを構築していったとて、それを演じる「顔」「声」「技術」「人柄」が伴っていないとなんの意味もないので、「笑いの理論解説」というのはそもそもそれ自体が面白くはならない。面白い人が説明してその説明を面白く感じるのは、そっくりそのまま、その話者に技術があり面白いからだ。面白くない人がいくら力説してもそれは「説明」でしかなく面白さにはつながらない。論理など知らなくても面白い人は最初から勘で面白さをわかっている。面白い人が使っている「間」を上手に真似ることができ(言葉などは真似ない)、そこに自分独自の何かを上塗りすればいいのだと理解している。理論を語りたがる人は、けっきょく「自分の好きな感じ」に逃げつつ、蛸壺の中での成功体験にしがみついている。そこでは大いに「権威」が利用され、愛想笑いと面白さの区別が曖昧になってゆく。「面白さ」は、絶対的な客体としては存在できない。だからこそ、説明者は場所・人・時間をすげかえて誤魔化すしかないのだ。そういうものなのだ。
何も知らずに言うこと言うな!
40年の時間を超えていまだ聴き継がれる輝かしい音楽があり、メンバーも全員存命で、再結成をしない。できないのではなくて「しない」。そんな稀有なバンドのお一人が、おそらくは耄碌によって、暴言を公開するようになってしまった。それは正義のための暴言のおつもりなのだが、まったく的を射ていない、同意してその味方になると人間性を疑われるような、残念な罵詈雑言だ。耄碌した上におそらくアルコールが入ると、もはや暴言を抑える筋力が退化してしまっている状態では誰も止められない。スマホとSNSと酔っ払いの相性の良さが裏目に出ている。「もう、昔の映像を観る気がなくなった」という往年のファンが増えたとしたら、それが一番悲しい。加齢・耄碌・スマホ・SNS・飲酒。お身内が取り上げられるのは後半3つか。早めの対処が望ましい。