鎌倉殿の13人

死なずに済んだパターンはないのか??畠山重忠の乱

投稿日:2022年9月17日 更新日:

雄鷹たちの日々 畠山重忠と東国もののふ群伝

 

剛勇の士、謀略に絡めとられる

よく「畠山重忠(はたけやましげただ)は、鎌倉の権力闘争に巻き込まれ」などと、あっさり書いてある。
もちろん間違いではないが「完全にがっちり、北条時政に騙されて、ハメられた」というのが本当のところだ。

元久元(1204)年、畠山重忠の息子・畠山重保(はたけやましげやす)が平賀朝雅(ひらがともまさ)と京の酒宴で口論になった。
何が原因の口論だったかはわからないが、武蔵守・平賀朝雅の後任となり後ろ盾となっていた北条時政と畠山氏は、対立する状態にあった。

鎌倉で権力のトップに立った北条時政は、武蔵守を畠山重忠に譲ったり贈ったりはしなかったのだ。
武蔵国は相模国(鎌倉がある)と並んで最も重要な国の一つだから、そこを北条一門が抑えることは権力構造の頂点に立つことを誇示する意味でも必要なことだったのだろう。

同じ年、息子の北条ヨシトキが相模守になっている。

先祖代々、武蔵人である畠山重忠は北条時政にとって娘婿でもあったが北条時政・牧の方にとっての優先順位は低かった。
同じく娘婿の平賀朝雅の方が大切だったのだ。

その平賀朝雅と畠山重保との口論の次の日、目に入れても痛くないと思っていた16歳の嫡男・北条政範(ほうじょうまさのり)が急死してしまう。この京への任務には北条時政も同行していたというから、もしかしたら何者かによる「北条時政暗殺」のとばっちりを受けてしまったのかもしれない。

もしくは「少年の、急性アルコール中毒」だった可能性もあるとは思う。

突然の息子の死の悲しみに狂い、その原因を他人に求めた権力欲の権化・北条時政は、ついに畠山重忠謀殺を決断する。

北条氏はたくさんの軍人を独自に抱えてはいないから、北条軍として畠山軍と直接対決をするということは不可能で、北条氏はその権力を行使して「鎌倉軍」を組織しなければならない。「鎌倉軍」が畠山軍を討伐して良いとなると、それにはれっきとした理由が、絶対に必要になる。

理由としては当然「鎌倉殿への謀反」が採用される。

謀反を鎮圧するためならば、大きな軍勢を保有していない北条氏は他の有力御家人への「将軍家からの命令」という方法を駆使し、軍を編成することができる。
謀略家・交渉巧者として鳴らした北条時政は、あの武勇を誇る畠山氏を今なら滅ぼせる、とどこかの時点で自信を持っていたのだと思われる。

それはおそらく、齢60を過ぎて鎌倉全土を仕切るパワーを得るまでに成り上がった自分が、その根拠としてわずか12歳の新鎌倉殿を掌中におさめた、という自負だったろう。

「殺す」と決めた北条時政は無実の罪をでっち上げ、稲毛重成(いなげしげなり)にその讒訴役をやらせ、若き将軍・源実朝にそれを信じ込ませて「畠山討伐」の許可を得た。北条時政は「お前のせいだ」とのちに、この稲毛重成も殺す。比企の乱に続き、「さっさと殺せば死人に口無し」をやろうとしたのだ。

 

え?謀反?誰が?畠山ぁ??まさかぁ!

と誰しもが思ったが、将軍から命令が出てるんじゃあしょうがない。

まず、京で平賀朝雅と口論したという息子・畠山重保を騙して殺すことに。
「謀反人がいるから由比ヶ浜に集合ッ!!」という命令を受けた畠山重保は、まさか自分がターゲットだと思ってないから鎌倉の屋敷から由比ヶ浜へ急行。
さすが武勇の家・畠山である。

ところが海辺で待ち構えていたのは自分を殺す気満々の軍隊だった。簡単に殺されてしまった。

「鎌倉で異変が起こった、すぐに急行せよ」という命令を受けた父・畠山重保は、武蔵国から急ぎ、鎌倉へ向かった。二俣川(ふたまたがわ)というところで、数千にも達するような軍勢の敵意が自分に向けられていることを知り、即座に覚悟を決めた。申し開きや逃げるのは、武士たるものの誉を汚す。戦って討ち死にし、死してその潔白を証す、とばかりに戦いを始めた。

たった100人だった。
ほんとうに謀反を企て鎌倉政府を転覆させるつもりならば、戦に負けたことのない畠山重保が、たった100人ほどでしかも一方向から、ゆっくり進んでくるはずがない。
秩父党の武士を総動員し、到着と同時に鎌倉で蜂起できるように間者を忍ばせ陽動を図り、必勝の計画を立てるはずである。

のちに義理の兄弟でもある北条ヨシトキは「悲涙禁じがたし」と号泣したそうだが、こういう時に姑息な救済措置に走らなかったというのが、畠山重忠が「伝説的武士の鑑」たる称号を得続けているところだと思われる。

行ってまいりました。

最期の地となってしまった二俣川(現在の神奈川県横浜市旭区)。
ここに、いくつかの史跡があります。

畠山重忠公碑

鎌倉時代の武将・畠山重忠公は、元久二年(一二〇五年)六月に
この地で戦死しました。この碑は、重忠公没後七五〇年を迎えた
昭和三〇年(一九五五年)六月に、地元・鶴ヶ峰と埼玉県川本村
(現・深谷市)の有志により建立されたものです。

交差点近くにある、ひっそりとした顕彰碑。
傍らにはお花が植えられており、きれいに整備されていました。
いや、数年前に通りかかった時には夏、かなり草ボーボーだったような気がしますがおそらく全国から訪問客も増え、良い「大河効果」が出ていると言えるのかも知れないな…と感じました。
ありがたいことです。

その横に、何やら説明書きが。

さかさ矢竹の由来

鎌倉武士の鑑 畠山重忠公は、この地で僅か
の軍兵で、北條勢の大軍と戦って敗れた。公
は戦死の直前に「我が心正しかればこの矢に
て枝葉を生じ繁茂せよ」よ、矢篦(やの)二筋を地に
突きさした。やがてこの矢が自然に根付き年
々二本ずつ生えて茂り続けて「さかさ矢竹」
と呼ばれるようになったと伝えられる。
このさかさ矢竹も昭和四十年代の中頃まで
は、現在の旭区役所北東側の土手一面に繁っ
ていたが、その後すべて消滅してしまった。
この度重忠こう没後八百年にあたり、ここに
さかさ矢竹を植えて再びその繁茂を期待します。

平成十七年六月二十二日
横浜旭ロータリークラブ

なんだかどれがそれかよくわからないんですが、おそらく右手の藪っぽくなってる竹がそれなんでしょう。
これくらいの不思議な伝説がニョキニョキ生えても良いくらいの人なのですね。
というか「のちに竹が繁茂した」は、騙されて滅亡した一族の、無念をなんとか晴らしてあげようとする後世の人々の優しさなんですよね。
竹って、ほっといたらビビるくらい茂るから。

そして…首塚。

住宅街の中にあります。

首塚

畠山重忠公は鎌倉時代の武将で、源頼朝の
忠臣として幕府の創設にも力を尽くし、智・仁・
勇を兼ね備えた武将として名声をはせていました。
しかし幕府の実権を巡る争いに巻き込まれ、旭区
の二俣川付近で戦死しました。

ここは、重忠公の首が祭られたところとい
われています。現在は西向きに建っていますが、以前は南を
向いていたそうです。

平成二十二年二月吉日 設置
旭区誕生40周年記念事業実行委員会
旭区観光協会

ここは首の「塚」なので、必ずしも首(頭部)そのものがここに埋められた訳ではないと思います。
一時的に埋葬されたかもしれませんが、やはり故人そのものであったであろう首は、故郷に葬られたのか。
それともかりそめの謀反人として討伐された形だったので、首実検後は打ち捨てられてしまったのか…。

最後にサラッと方角についての報告がありましたが、「西ではなく南を向いていた」というのはもしかしてすごく重要なことなのかも知れませんね。
なぜなら、この「首塚」「公碑」からほぼ真南が、「鎌倉」だからです。

鎌倉殿への忠義一徹を貫いた畠山重忠が、死してなお武士の世の、鎌倉殿の安泰を願っていた…と考えるのも一興、ということですね。

というかじゃあなんで今は、本拠地・秩父の方面(北)でもない西を向いとるんじゃ…と疑問がすぐに湧いてきますが。

 

この「首塚」のすぐそばには「首洗いの井戸(跡)」がありました。

ここは現在、区役所裏手の駐車場の敷地内で、井戸も川もありません。

首洗い井戸

畠山重忠公は鎌倉時代の智・仁・勇を備え
た武将でした。しかし、幕府の実権を巡る争いに
巻き込まれ、鎌倉に至急参上せよという北条時政
からの命に接して鶴ヶ峰にさしかかったところ、北条
勢の大軍に待ちぶせされました。熱戦を繰り広げ
ましたが、弓の名手愛甲三郎季隆(すえたか)の
放った矢に当たり、四十二才の生涯をこの地に
閉じました。元久二年(千二〇五年)六月二十二日
のことです。
ここには重忠公の首を洗い清めたといわれる井戸
がありました。以前は帷子川の河原に直径1メ
ートルほどの穴があり、水が湧いていたといいますが、
川の流れが変わって失われてしまいました。

平成二十二年二月吉日 設置

旭区誕生40周年記念事業実行委員会
旭区観光協会

まだまだあるよ、重忠公の史跡(最期の地)をめぐる旅

 

横浜市旭区では有志の方々が、「重忠公ゆかりの地を訪て」という全長6.8kmに及ぶハイキングコースを用意してくれています。

旭ガイドボランティアの会
1a重忠公ゆかりの地を訪て

https://asahi-sanpo.jimdo.com/新-あさひ散歩コース紹介/1a-重忠公ゆかりの地を訪ねて/

山あり谷ありの、自然たっぷりの良いコースだと思います。
北条軍に囲まれないように、気をつけて歩いてください。

 

畠山重忠が死なずに済んだパターンはあったか?

実は、謀反の罪を着せられたのに、回避し合戦にもならず矢にも当たらず、死なずに済んだ人がいる。

宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)である。
彼は畠山重忠と同じく、北条時政の娘婿であり、本拠地は下野(しもつけ。現在の栃木県)。
謀反の噂が立ちのぼり、すでに下野を軍勢が出発してるという話になっていた。

北条政子・北条義時らが緊急会議を終えた後、同じ下野の豪族・小山朝政(おやまともまさ)が呼びだされ、お前が宇都宮頼綱を討ち取ってこい、という命令が下された。

ところが小山朝政は、この命令を拒否した。
命令って拒否できるの??という感じだが、親類だし無理です誰か他の人に命じてください、と言い出して帰ってしまった。

しばらくすると宇都宮頼綱から鎌倉に手紙が届く。弁明する内容だった。
宇都宮頼綱は出家し、頭を丸めた。
家来60人以上も同時に出家・剃髪したという。
やがて本人が鎌倉に現れ、切った髪を献上し、謝罪は受け入れられた。

いやいや、本来、謝罪するべき筋のことではないのだ。
そもそも謀反は企んでいないし、弁明すると言っても内容がないんだから反省のしようもない。
立証責任もない。

宇都宮頼綱は出家して京で歌人として活躍するが、そもそも実力のある御家人だった宇都宮氏は、その館がのちに「鎌倉殿の御所」になったりしている。

けっきょく幕府はどこにある〜移転する御所〜

重要なのはこの「宇都宮頼綱謀反未遂」いや「宇都宮頼綱“討伐”未遂」が、北条ヨシトキの時代に起こっているということ。

畠山重忠の乱を経て、牧氏事件で北条時政は失脚、伊豆に引っ込んだ。
執権職は、北条ヨシトキが家業として二代目を張っている。

謀反の疑いをかけてグズグズしているうちに大軍で取り囲んで殺してしまうという「畠山パターン」を踏襲して、下野実力者・宇都宮頼綱を殺してしまおうと北条ヨシトキは考えたのかも知れない。
あの時は泣くほど辛かったけど、やり方としてはけっこうスムースで強引に進めるには結局これしかないかもな…なんて。

しかし彼は北条時政ほど強引ではなく、仲裁に入ったかなり年長の小山朝政の老獪な(のらりくらりな)戦術に翻弄され、なんとなく赦すしかない雰囲気にされてしまった。
「宇都宮パターン」で乗り切られてしまった。

こういう人が、畠山重忠の周りにもいたら。
いや、畠山重忠自身がもっと柔軟に「疑われたこと自体が不徳のいたすところでござる」と、金銀財宝を献上してでも、頭を丸めてでも、しっかり頭を下げるとができる、人だったら。

実直でなかったら。
まっすぐな人でなかったら。
戦いに誇りを持っていなかったら。
正義を貫く人で、なかったら。

…そんなものは畠山重忠ではない。

彼は、戦う。
潔く死す。
それで良いのである。

鎌倉幕府草創期を支えた武人の中の武人・漢の中の漢、畠山重忠は騙し討ちを真っ向から受けて立ち、美しく身罷(みまか)った。

彼を顕彰する史跡や碑石、お寺や塚がこれだけ各所にある(残っている)ということは、権力を恣(ほしいまま)にした北条氏が長く、彼に対して「申し訳ない」と思ってた証拠なんじゃないのか…と、思えてくる。

 







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