鎌倉殿の13人

鎌倉殿の13人 第36回『武士の鑑』

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頼朝死後の熾烈な権力争い。

それを制した北条が

すべてを手にしたかに見えた。

しかし、その力に屈しない男がいる。

ここから8年(1223年まで)、静かになる鎌倉。

つまりこの事件(畠山重忠の乱)の衝撃が、鎌倉全土に、いかに恐怖と惜念を持って受け止められたか…ということだと思います。

権力に酔い、若い後妻にそそのかされて、畠山重忠を謀略に陥れて殺そうと思い立ち、ほんとに実行してしまう北条時政(ほうじょうときまさ・坂東彌十郎)。

秩父の人であり、畠山重忠(はたけやまのしげただ・中川大志)の同族である稲毛重成(いなげしげなり・村上誠基)を手先にして、やりたい放題に邪魔者を排除してしまいました。

面白いのはその時の、他の御家人の立ち振る舞いですよね。

三浦義村(みうらよしむら・山本耕史)は、全て承諾、という感じで受け入れてました。
「執権殿に逆らったらこっちが危ない」と言ってましたが、武力を多く持っている三浦氏は、鎌倉のキャスティングボートを自分が握っていること、認識してますよね。

そして北条時政は、息子・畠山重保(はたけやましげやす・杉田雷麟)を「殺してはならぬ」と命じてましたね。あんなの嘘です。生かして人質にしてもプラスがないから。親を殺して子供を生かしたら「恨みを持って復讐するに決まってる」のは、源頼朝(みなもとのよりとも・大泉洋)だけでなく、「曽我事件」でもわかってるはずですから。最初から、息子も殺す気まんまんだったはずです。

鎌倉殿から出てしまった命令には従わないといけない、という絶対的な流れが出来上がってしまったという、権力・権威の確立と指揮系統システムの構築の完成…みたいなところもあるように思えます。

御家人たちにとっては、鎌倉殿から正式に下された命令なら疑義をはさむとか逆らうとかはゼロにするのがベストな処世術、ということになるでしょうし、それが道義に反していようが「とりあえず正しいことをしたんですから。」と言い訳ができる、みたいな。

 

わかっていて出陣する、漢の中の漢。

わずか134騎。
畠山重忠に叛心がなかったことの傍証として「本当に鎌倉を陥落させるつもりなら、猛将の中の猛将が、そんな手勢の少なさで武蔵国を出発するわけがない」と言われています。

確かにそうですよね。
「鎌倉軍」がいくら多く待ち構えていようとも、「畠山軍」を編成せずに戦いに挑むなんてことはあり得ない。つまり「戦」をするつもりはなかったということです。

だけど、ただ黙って囚われるようなことはない。
だって罪人じゃないんだから。

和平のために、少数で向かったんじゃない。
「死ぬために向かった」のです。

源実朝(みなもとのさねとも・柿澤勇人)が、合議の中で「下文(くだしぶみ・命令書」を取り消すことはできないのか?」とナイーブなことを言い出し、「ご威信に傷が付きます」と北条ヨシトキ(小栗旬)に諌められました。

権力構造と鎌倉システムには当の鎌倉殿本人でさえ逆らえない…というような描写でしたが、実際にはこの時、源実朝は12歳です。なんの力もありません。傍に乳母である実衣(みい・宮澤エマ)が座っているのがその証拠で、彼に政治的な発言権などありません。「取り消すことはできないのか。畠山重忠を殺してはならん」なんてことすらも、思ってなかったと思います。幼い三代目は、この権力闘争と武力衝突の、蚊帳の外に置かれていたはず。

「謀反人がいるから討伐のため、集合!」と由比ヶ浜に呼び出されたら「謀反人はお前なんだよ」と言われ、驚愕の中で殺された畠山重保。なんの勢いか、三浦の手勢によって殺されました。
理由の説明もないし弁明もさせてもらえず、いきなり罪人として首を切られました。

ああはなりたくない晩節

立ったまま謀議をしている鎌倉の主要人物たち。
「緊急会議」という演出ですね。
この会議に、りく(牧の方・宮沢りえ)が参席していることがすでに北条時政が骨抜きにされている証拠じゃないか…っていう感じがしますが、北条時房(ほうじょうときふさ・瀬戸康史)が「北条政範(ほうじょうまさのり・中川翼)を失った無念はお察しします…だからと言って、全てを畠山に押し付けようと言うのは良くない」と正論を言いました。

これ、みんなが思ってることです。

要するに「お前みたいな権力欲のカタマリの、ごうつくババアが政治に口出すとめちゃくちゃになるから黙ってろクソ女!」っていう意味ですよね。

ほんとうはこれを、もっと早い段階で、北条ヨシトキがビシッと言っておかなければいけなかったんです。

「それ以上口を挟むな!!」と北条時政はりくに啖呵を切ってますが、あんなのぜったい嘘です。
そんな啖呵が切れるなら、「口を挟むな」はもっと早く言えていたはず。
ここへ来て百戦錬磨の武士ぶってももう遅い。
耄碌して鈍化してしまった老人に、冷静で温情的な判断は不可能になっていたと言えるでしょう。
若い女の言いなりです。無様に謝ってた。なんとも醜い。

もはや名優・坂東彌十郎さんのためのセリフ、というのが本当のところではないでしょうか。

 

畠山重忠は「鶴ヶ峰」に布陣。
それは本当に「布陣」だったんですかね…。

死なずに済んだパターンはないのか??畠山重忠の乱

討伐軍の、(いっそ)大将にしてくれと申し出る北条ヨシトキ。

畠山重忠が布陣したというのは、現在の駅でいうと、ここ。

相鉄線です。
「布陣の理由」である高台はそのままだと思いますが、現在は川の流れが変わっています。
上手いところへ布陣しやがったぜ感がありますが、なぜここなんでしょう。

畠山討伐軍は二軍、編成されました。

トップとして任命されたのは「大手将軍」と「関戸大将軍」。

「関戸」大将軍というのは、鎌倉に向かう道を可能性で考えた時、多摩川を渡る辺りの「関戸」という場所を通るルートで迎え撃つために作られた軍で、北条時房があたりました。

北条ヨシトキが就いたもう一つの「大手」将軍というのは、畠山重忠の従兄弟・榛谷重朝(はんがやしげとも)の所領なのでおそらくそこを通って来るだろうという本命の予想から、「メイン」という意味でつけられた名前だったんですね。

ということはドラマ内の時間軸とは違い、北条勢(鎌倉軍)は、「畠山重忠が鶴ヶ峰に布陣したから迎撃した」んじゃなくて、「畠山勢のルートをしっかり予想して待ち伏せしてた」ということになりませんかね…。
鎌倉側からすると「この辺りで迎え撃たないと間に合わない」という恐怖だったんじゃないでしょうか。

関戸大将軍は挟撃用の部隊。
もしくは残党が逃げたら追いかけ回して殺す部隊。

「いざ鎌倉」という時のために整備された鎌倉街道には「上道(かみつみち)」「中道(なかつみち)」 下道(しもつみち)」があり、 そのルートが最短で最良という常識があったんでしょう。そこを利用することはわかりきっていることだったので(急いでるし)、衝突する場所の絞り込みも容易だったのかもしれません。

 

武の中の武、明鏡止水

疑われた時点でもう不名誉、という論理構成を持っている高潔な武士。

さらにその武士の中の武士である畠山重忠は、自分の立場がもうどうしようもないところに向かってることを、早い段階で知っていたんじゃないでしょうか。

そして北条ヨシトキは、なんとかしようとほんとにしてたんでしょうか。
家長であり鎌倉システムのトップである北条時政に逆らえないとは言え、御家人66人が集まって連判状を作ったあの時(梶原景時事件)のようにはいかなかったんでしょうか。

さすがに三浦一族である和田義盛(わだよしもり・横田栄司)の直談判や肝胆相照らす雑談、なんかでなんとかできるような状況ではないとは思いますが、そうでなくてももう、畠山重忠は「これ以上、北条の下ではやっていけん」とブチ切れていたんです。

文字通り、死守すべきは武士の誉。

鎌倉時代初期に滅んだにしては畠山重忠の名前ってものすごく、輝いて残ってるんですよね。
その理由としては「芝居の題材になったから」に他ならないんですが、他にも名誉の戦死を選んだ武士はたくさんいるはずなのに、800年間「鑑」とまで称えられる人は珍しい。

やりきれないヨシトキ

「いつの間に…なんでこんな…ことに…」という無念を胸に、かつての盟友、同年代、しかも親戚である男を殺さねばならなくなりました。

虚しい戦いです。
畠山重忠には、打ち果たすべき敵もいないし、達成すべき目的もない。

鎌倉軍には「謀反なの?ほんとに?」と疑いながら出陣してる将がたくさんいる。

鎌倉の御家人の配下にいる一兵卒らは事情を知らないでしょうが、畠山重忠の兵は、自分の死が一族の名誉に直結することを悟っていますから、その馬力は何倍にもなりドーパミンが溢れ、強く死を意識していることもあって、バーサーカ化しています。

及び腰で「まあ、ささっと退治して恩賞でももらうべさ…」くらいで参加してる連中とは気合が違います。

畠山重忠は、あの鵯越を馬を担いで降りたという伝説が残る豪の者ですよ。
多勢に無勢とは言え、勝ち組であってもどうせ戦で死ぬなら畠山重忠に斬られて死んだ方が名誉じゃ、というくらいの人です。鎌倉軍にも相当の死傷者は出たはずですよね。一騎打ちで、北条ヨシトキレベルの人が勝てる相手では絶対にありません。

しかし友情と無念が交錯する、激しいタイマンシーンでした。

が、あんな正々堂々とした決着方法を選べるほど、鎌倉武士は義を重んじたりしないので、実際には遠くから膨大な数の矢で射、雑兵で取り囲んで卑怯にくびり殺したのでしょう。それを北条ヨシトキは、茶漬けでも食べながら陣の最後方で報告を聞いていたはず。

北条時政の若い後妻の狂った嫉妬と、武蔵国の利権への執着が原因で、天下に轟く猛将が卑怯な方法で殺されてしまいました。思えば上総介広常(かずさのすけひろつね・佐藤浩一)もそうでしたよね。源頼朝による嫉妬と執着(と恐怖)で、力を持っていた上総介広常は卑怯に殺されました。あの時点で、全国レベルで見ても屈指の大軍勢を持っていた上総介広常は、源頼朝にとっては頼りになる人であると同時に、目の上の巨大タンコブでもあった。うまく立ち回っていたはずなんですがそれでも、猜疑心に満ちた源頼朝にはいずれ、殺されていたとしか言いようがないです。

なんだその戦後処理

鎌倉に帰ってきた北条ヨシトキは、ついに北条時政に進退をすら迫る覚悟を見せつけました。
執権の権力の強さを思い知ったのと同時に、北条時政がこのまま鎌倉のトップに居座り続けることへの強烈な違和感を、御家人たちは持ったはずです。

で、「稲毛重成があることないこと言って、畠山討伐をするように仕向けたのだ」ということにしたんですね。いやいや、そんなうまいこといきます?そんなの不自然なのは、誰が見てもわかるでしょう。

誰かをスケープゴートにしなければ事態が収拾できないというのはわかりますが、畠山重忠の親戚でもある稲毛重成あたりに罪をかぶせても、誤魔化せないと思うんですけど。
和田義盛とか三浦義村が焚きつけた、くらいならわかりますが「全鎌倉は、稲毛重成の耳打ちで動かせる。将軍の下文まで出せる」っていうことになりますけどそれでいいんですかね。

稲毛重成と言えば、源頼朝が帰りに死の原因になった落馬をした、あの「橋供養」をした人です。

そして畠山重忠の従兄弟でもある。
亡き妻のために川に橋をかけ、その落成供養にあの初代将軍が参加するほどの情の人だったのに、なんだか無残な最期と言わざるを得ません。

もしかすると北条一族は「あの源二位(源頼朝)が参加した橋供養」そのものに嫉妬しており、長年苦々しく思っており、いつかなんらかの罪で稲毛重成を殺してやる、と狙っていたのかもしれません。

鎌倉殿の13人 第25回『天が望んだ男」

スーパー「いなげや」は、この稲毛重成にちなんでいるそうです。

何度も載せて恐縮ですが、畠山重忠、なんとか死なずにいけたパターンはないものか、と思います。

死なずに済んだパターンはないのか??畠山重忠の乱

強欲な権力女・りくの言いなりになった理由を「わしは皆の喜ぶ顔を見てると心が和むんじゃ」だと言ってのけた北条時政。そんなフォローではもはや挽回できない事態になってるん(混乱の極み)ですが、誰にも陰謀と殺戮の渦を止めることはできず、言ってみれば自身もその渦中で溺れながら、なんとか生き残らねばならないという処世術を発揮し、それを平然と源頼朝のせいにする北条ヨシトキ。

父親に御家人の連判状を突きつけ、実質的に脅迫しましたね。

気迫を持って論功行賞からも追い出し、家長に逼塞を迫った北条ヨシトキ。
いやいや「見事じゃ!」じゃないですよ。

それが出来るならもっと早くやれよバカヤロウ、次郎が死んじまったじゃねえか。

 

今回の『鎌倉殿の13人紀行』は、ここでした。

畠山重忠公碑

死なずに済んだパターンはないのか??畠山重忠の乱







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