「赤い彗星(すいせい)」と呼ばれたシャア・アズナブル。
私たちが初めて彼を目にした時、彼はすでにそう呼ばれていました。
彼はたった一人で5隻の「戦艦」を撃沈するなどの戦績を挙げ、「赤い彗星」の異名を得たとのこと。どうやらその戦い(ルウム戦役というらしい)の時にはすでに、赤色にモビルスーツを塗っていたそうなので、とんでもない我の強さです。
なんで「赤き流星」ではなく「赤い彗星」なのか。
それは彗星が古今東西、流星をはるかに凌ぐ「不吉の象徴だったから」ではないでしょうか。
つまり「赤い彗星」は、敵方がそう叫び、味方も彼自身すらも皮肉を込めてそれ(不吉)を受け入れた二つ名、ということになります。
彗星は、少し字が似てますけど「箒星(ほうきぼし)」とも言われています。
ホウキのような刷毛部分というか、尻尾部分を持ってるからですね。
地球から見える彗星ということになると、それは太陽の周りに軌道を持っているタイプである確率が高いそうです。
ただただまっすぐ地球の横を通り過ぎるように見えても数千年とか数万年とかの時間軸で、軌道を回ってるのかもしれない。
そのまま消滅してしまうタイプもあるんでしょうけれど、律儀に周期を守って地球近くに来る奴もいる。
有名なハレー彗星の周期は75.32年。
1986年には大騒ぎ。
次回は2061年。
西暦66年にはすでに「70年に一度現れる、船長を惑わす星」という記述が、ユダヤ教の経典にはあるそうです。
計算によると、ユリウス・カエサルが暗殺された年(紀元前44年)にも大彗星の記録があるそうで、これはハレー彗星ではないけれど、各種の彗星が「凶事の象徴」として受け止められていたのは事実です。
鎌倉時代の天変地異
さて、吉兆を占う陰陽師が公的機関として確立されていた平安時代、その世をひっくり返すような大革命が起こったと考えて良いであろう、鎌倉時代への突入。
史上初の武士政権の誕生。
この頃、少なくとも京の貴族には「とにかく不吉にも程がある」凶事の連続…と見えていたと考えられます。
まずは治承5(1181)年。
前年に源頼朝軍は富士川の合戦で平家軍に勝利し、坂東の備えを強固にしていった頃。
2月には、平清盛が死んだ年。
九条兼実の日記『玉葉』にある「以ての外の変異なり、左右(とこう)するあたわず、天下の大事、足を挙げて待つべし」という記述。
なんだかとんでもない事態になっているので、なにが起こってもおかしくないぞこりゃ…と狼狽している様子が書かれています。現在ではこの、不吉な兆候だとされた天体は「SN1181(超新星1181)」だと判明しているそうです。
他に日本の『吾妻鏡』『明月記』だけでなく、中国の『宋史』などにも記述が残っている。
だいたい、月すらもなぜそこに浮かんでいる…のか?もよくわからず人間の手ではどうしようもない距離にある不思議そのものである夜の空に、さらに予想外のものが煌々と輝き始めたら、やっぱり「吉」よりも「凶」を感じてしまうのが人間というものなのでしょうか。
文治5(1189)年。
源頼朝も鎌倉で、夜空を見上げて観察したという彗星が現れました。
この数ヶ月後には異母弟・源義経討伐を完了させ、東北攻めによって東日本の支配を盤石なものとする源頼朝。
『一代要記』(著者不詳)には、この彗星は東方に現れ、長さ1丈余りで色は赤白、と書かれているそうです。
源頼朝はこの彗星を凶兆とは受け止めず、吉兆であると受け止めたのか…大して気にしてないんですね。さすがの度量、というところでしょうか。
承元4(1210)年。
その源頼朝が死んで10年。
二代目・源頼家は1204年に死に、梶原景時・畠山重忠・比企能員などが殺され、北条時政も失脚。
鎌倉は疑心暗鬼と鮮血に塗(まみ)れ、御所は伏魔殿と化し北条ヨシトキがその政権維持を一手に引き受けているという状態。
多くの人を驚かせる彗星が出現したようで、「改元あるべし」という相談も行われたらしいのです。
承久元(1219)年
三代目・源実朝が殺された年。
いよいよ「承久の乱」まであと3年。
まさかの将軍が殺される事態。
不信感を募らせる京の後鳥羽上皇は、幕府(というより北条ヨシトキ)の専横が我慢ならなくなってきて、子飼いの武士を増やしつつあります。そんな年末に現れた彗星。明けて承久2(1220)年にも現れた凶星に、京では大騒ぎになりました。
鎌倉では観察されなかったのかわざと無視していたのか、生まれたばかりの三男坊・三寅(みとら)を四代目将軍として送り出そうとしていた左大臣・藤原道家から「何をしとるんじゃ早く鎌倉でも祈祷をせんかい」と使者を送られてきたそうです。
彗星だけではなかった。お、オーロラ!!??
藤原定家が記した『明月記』に残された「赤気」。
1204年2月21日の夜空に現れ、京の人々に強烈な恐怖を与えました。
『御室相承記』(仁和寺)にも21日から3日連続で現れた「赤気」のことが書かれています。
これは、どうやら本当に「オーロラ」のようなのです。
現代の研究によって、西暦1200年頃というのは地磁気の軸が今とは逆に日本の方に傾いており、過去2,000年間において日本で、オーロラが最も観測しやすい時期であることが判明しています。
中国の『宋史』にも900年代~1200年代に、赤いオーロラが観察されたことが十数例記載されているとのこと。
当時の人々にとっては「人がいるからこの世がある」という感覚が強いのか、あるいは「世界があるから人間もいる」という感覚が勝ってるのか…手の出しようもなくうろたえるだけの天体イベントが、ただただ喜んで変化を楽しむという「ショー」の類のものでなかったことは事実ですよね。
あれだけのことが夜空で起こるんですから。
現代ですら、ありもしない「地震雲」で騒いでいるバカどもが一定数いるくらいですから、800年も前ならそれはそれは「禍々しい何かが迫っている…」と不安を渦巻かせたであろうことは、想像に難くないところです(鎌倉時代の彼らはバカではない。バカは地震雲を信じてる連中)。
どちらかというと卜占や陰陽道などに右往左往する京の貴族たちよりも鎌倉武士は、冷静なリアリストだったはずです。武士は血を見ることを厭わない集団なので、比較的、奇怪で珍しい天体現象にも、ポジティブな理解を示そうとしたのではないでしょうか。
考えてみれば珍しい現象だからといってそれを「凶事」と捉えるのも勝手な解釈ですからね。「落雷」も、時には吉兆として処理されたりしてますから、解釈によって本来、どうとでもなるものです。
オーソドックス・スタイルとしては死を穢れとし、血を不浄とする思想が蔓延る都では、その考え方そのものが差別の温床となり、身分制度の屋台骨になっています。
だけど鳥のフンを頭に落とされたって「汚れ」という意味ではマイナスですが「確率」という意味では、宝くじに匹敵する幸運ですからねえ…。
京の、古い支配を離れ、新秩序を確立しつつあった鎌倉時代。
この頃からだんだん、日本人の感覚が変わっていく過渡期に突入していったと考えると、夜空の奇妙な天体イベントを眺めていた当時の人たちの胸中には不安と期待、創造と破壊の両方が去来していたのだろうなぁ…と、不思議な感覚になってきます。
参考
埼玉学園大学・川口短期大学 機関リポジトリ
『吾妻鏡』に見える彗星と客星について : 鎌倉天文道の苦闘
https://saigaku.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=379&item_no=1&attribute_id=73&file_no=1&page_id=13&block_id=21国立極地研究所
『明月記』と『宋史』の記述から、平安・鎌倉時代における連発巨大磁気嵐の発生パターンを解明/国文学研究資料館