鎌倉殿の13人

第18回『壇ノ浦で舞った男』

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都に足掛かりを築いた

源氏に対して、

平家は瀬戸内海を押さえ、

最後の抵抗を繰り広げる。

最終決戦が

目の前に迫っていた。

 

玉座をめぐるゲーム

18回見てると、なんだか「ゲーム・オブ・スローンズ」のオープニングに曲の雰囲気が似てる感じがしてきました。

でもそうか、スローン(Throne)とは玉座とか、王位とかいう意味ですから、決定的な「一天万乗の君」の位は揺るがないものの(天皇家)、それを取り巻く支配権みたいなものを奪い合う果てなき政争、骨肉相食む裏切りと謀略。そして武力による血みどろの衝突。

平安末期からの動乱はまさに「ゲーム・オブ・スローンズ」ですね。

源義経の活躍

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にとっては、源義経(みなもとのよしつね・菅田将暉)の活躍や悲劇は「前日譚」に過ぎません。

まさか八島(やしま)の合戦シーンがスルーされる(地図上で説明)とは思いませんでしたが、要は

○源義経がどんどん攻めて勝つ
○ちょっと他の源氏軍は置き去りになるくらいに
○攻め滅ぼして決定的に勝っちゃう
○三種の神器のうちの一つを喪失

というポイントを示せれば、それでいいのだと思います。

兄であり在・鎌倉の総司令官の源頼朝(みなもとのよりとも・大泉洋)の不興を買う…どころではなく、だんだん「謀反の心これありそうろう」扱いというか、討伐の対象になってしまう弟。

源氏の本軍・源範頼(みなもとののりより・迫田孝也)らは九州へ攻め込む船の調達に苦労していましたね。西日本、それも瀬戸内海はやはり平家のテリトリーなので、協力する地元豪族がそう多くなかったということでしょう。

だいたい、馬に乗って戦うことが得意な坂東の武士たちにとって、船に乗って海戦で勝つというのはまず難しいという認識があったはずです。船を調達できたからってそれを運用できずに浮かんでいるだけでは意味がない。船を実際に動かす水手(かこ)や船頭を雇い入れる必要があったでしょう。千変万化する戦場の動きと潮の流れに対応できる、熟練の漕ぎ手がいないと海での戦いでは絶対に勝てません。

その意味で、「良い海の男」はすでに平家が押さえているはずですよね。

海のことをよく知ってるのも平家。
いくら何万の兵で攻めてこようと、数千の船を並べようと、そう簡単には負けるはずがないんです。全体として・政治として、源氏が押してることには変わりないけれど、陸と海、本州と四国(および島々)で戦い続けると、源氏軍にも相当の被害が出ることは明白。

「あれ?源氏の源頼朝って、大したこと、ないんじゃあ…」という風評が全国に広まれば、平家に味方し出す人たちがどんどん現れて、京周辺の勢力が再度ひっくり返る…なんてことも、ない話ではないんですよね。

そう考えると、鎌倉で全体の構想を練っている源頼朝は「ある程度のところで平家との戦いは講和に持ち込んで、兵力を温存させたままじわじわと、西日本の支配を進めていく」という「真綿で首」計画を持っていた可能性はやはり、否定できないんですよね。

誰も、あんな風に(源義経がやったように)平家を短期間に殺しまくった勝利が舞い込んでくるなんて思ってなかった。劇的に、まさか天皇を巻き込んで命まで奪うことになろうとは、思っていなかったのではないか。

梶原景時(かじわらのかげとき・中村獅童)との意見の衝突もここへ来て決定的に。
しかし一旦、折れて大人な様子を見せて、結託してるふりすらする梶原景時。
「坂東武者は腰抜けばかりだ!!!」と吐き捨てて源義経は、八島へ暴風雨の中の進軍を決行しました。
源義経は坂東武者ではないですが、だからと言って西国武者でもない。
海戦の経験などあろうはずもない。

八島は、今は陸続きですがこれは埋め立てられて地続きになったんですね。
江戸時代までは、「島」でした。

基本的に船なんか持ってない源氏軍を相手にする時、一ノ谷の戦いで敗れた平家軍は、当然のように海を渡り、八島に陣取りました。

そう、当然のように「ここまでは追ってこれまい」という常識を持ってたんですね。来るにしても天候や潮・季節などを考慮して、じっくり来るだろうと。それが常識でっせ、と。

で、一ノ谷の戦いと同じように常識を破ってくる源義経のせいで負けた。
平家にとっては「源義経さえいなければ」という感じです。

そしてその「源義経さえいなければ」が、源頼朝の脳裏にさえ浮かんでしまうことに…。

 

卑怯というか考えの外にあった戦術

壇ノ浦で「漕ぎ手を狙うというのはどうだ」と、奇想天外な戦術を採った源義経。

職業差別、とも誰も言わないほどに自然な身分の違いが浸透している時代には、上に書いたような「彼らがいないと、船はただ浮かんでいるしかない」というくらいに重要な「漕ぎ手」は、「その場にいないも同然とみなす」のが当たり前だったんですね。

戦うのは武士であり、水手は動力。
武者にとっては正々堂々と名乗りを挙げて相手を討つのが戦いのセオリーであって名誉です。
だから基本的に、馬も狙いません。

馬なんか作戦として殺して勝ったとなったら恥ずかしい。
武士たちにとって、馬は共有財産というか「敵の馬でも馬に罪なし」みたいなところがありますから、馬は殺したりするものではない。思考はそこで終わりです。

「将を射んと欲すればまず馬を射よ」という諺がありますが、これは杜甫(とほ)の詩の一節だそうです。杜甫は8世紀の人なので、日本の知識人たちがこのフレーズを知ってた可能性はあります。

だけどおそらく、源義経は知らなかった。
知らなかったのに「漕ぎ手を殺せば船は止まるんじゃね?」と、誰も考えてなかったことを思いつき、本当に実行してしまうのです。非戦闘員を殺す不名誉より「勝たなければ意味がない」と優先した。

みんなびっくりしてました。はっきり言って引いてた。
つまりここで、「源義経ってめちゃくちゃだという印象を、味方も持った」という描写なんですね。

従軍している、伝統ある坂東の武士の家柄の人たちは「あんなことまでして…」と引いてた。
驚異的な「八艘飛び」で縦横無尽に戦い続ける源義経に、味方も実は引いてたんです。

これが、のちに源義経が追われる段階になって、味方が少なくなってしまった遠因ということでしょう。

普通の武士では思いついても絶対にやらない。それは「ルール違反」だからです。
武士の名誉は、ルールを逸脱して勝ったとしても輝かない。
勲(いさおし)にはならないのです。
だけど源義経はやった。

そして絶対に不利な戦況をひっくり返して壇ノ浦で、壊滅的打撃を与えた。

敗北した平家の武将たちが入水して自死を選ぶのはまだしも、女官や侍女など、女性たちまで死を選んだのはなぜなのでしょう。それは「坂東武者にめちゃくちゃに陵辱される」ことを恐れたからです。京の女性にとって、坂東武者などは猛獣と同じで、めちゃくちゃにされてしまう。「女性は殺さない」という暗黙の了解があった時代ではありますが、それでも逃げるように自ら死を選びました。

単に平家と源氏ということではなくて「雅な文化 vs 野蛮な獣」みたいな構図が、そこにはあった。

だって、「非戦闘員である漕ぎ手まで平気で殺す」んですから。

幼帝・安徳天皇も、急な流れの中へ。
一緒に三種の神器も海に沈みました。
八咫鏡と八尺瓊勾玉はなんと海からの回収に成功しましたが、天叢雲剣だけが消失。
今も、壇ノ浦の海底のどこかに沈んでいます。

当然のよう後白河法皇(ごしらかわほうおう・西田敏行)に褒められ、調子に乗る源義経。
いかんいかん、九郎よ、京に染まってはいかん。

凱旋将軍として、都での源義経の立場はかなり良くなっていきます。

朝廷には常に「自分が政治の中心にならねば」と、権謀術数を張り巡らす公家たちがウヨウヨいるわけで、彼らは味方にできるものはなんでも取り込み、勢力の拡大を狙っています。

そんな伏魔殿と言える場所に、戦闘しか知らないウブなお坊ちゃんが放り込まれたのです。

何せ源氏の「御曹司」ですし、血統としては申し分ない。
「取り込んで、投資しておく」にはじゅうぶんな逸 材。
縁を持って、支配下に置いておけば役に立つ…という、「またとない道具」なんですね。

なので露骨にチヤホヤされる。女にもモテる。
奥州育ちの田舎者である源義経が、文化の中心・なんでも揃うメガロポリスで浮かれてしまうのも仕方ないのかもしれません。

梶原景時が讒言を続け、鎌倉における源義経の評価が決定的に。
大江広元(おおえのひろもと・栗原英雄)が言ったように、呼び戻そうにも源義経は「検非違使(けびいし)に任じられているため、京から動けない」んですね。検非違使は京の治安を維持する部隊であり、勝手に京を離れることはできません。命令があれば出張することもあったようですが。

「坂東武者は鎌倉殿の命にすべて従うべし」の論理を構築していきたい源頼朝にとって、そんな役職に勝手に任ぜられるなどもってのほか、ということになったんですね。鎌倉殿系統と、法皇様系統の二つに武士が割れることが、源頼朝にとっては一番嫌なのです。我が弟たる源義経が、その先陣を切ってどうする。勝手なことを。図に乗りおって。ブ男である源頼朝が、秀麗な源義経にシンプルに嫉妬した説もあるそうですが…。

しかしこの時点で、そんなに源義経にブチギレするほどのこと、ですかね…。
権威と権力が否応なしに大きくなっていく源頼朝、のちに朝廷の除目をひっくり返すことなど可能なはずで、今は身内を京都に浸透させておくというやり方も、きっとあったはずでしょう。
そんなにすぐに、弟にブチギレたりしますかね…。

平宗盛(たいらのむねもり・小泉孝太郎)らを捕え、西日本の平家領を没収したことで、源氏の勝利と支配は決定的になっていきつつある段階ですが、まだ完璧に平和になったわけでもないし、平家の残党がゼロになったわけでもない。

源頼朝の「九郎には会わん!」という決定で、源義経は鎌倉に戻れないことに。

有名な「腰越状」で、兄に詫びを入れることに。
この「腰越状」は、後世の創作なのだそうです。
長らくドラマなどでは当然のように採用されていた「腰越状」ですが、『鎌倉殿の13人』ではあっさり「これは九郎の書いたものではない!」と、喝破されていました。偽物だと。

その指摘は、「腰越状」にあった「当家の名誉であり、世にも稀な重職で、これ以上のものはない」という部分でした。

検非違使には、祖父にあたる源為義(みなもとのためよし)もなっており、そんなに「めちゃくちゃな名誉」でもないという判断です。検非違使は令外官ですが、それならば源頼朝が少年時代に就いた「右兵衛権佐」の方が立派であり、上であり、「わしの官職を、ろくに知らん奴が書いたのは明白じゃ」と言ったのはそういうことなんですね。

じゃあ誰が書いたのか…おそらく学のある、弁慶(べんけい・佳久創)あたりが書いたんでしょう。だけどそれも、どうやら「わざと」だった。あの源義経の態度。バレると知ってて、怒るとわかってて、和解できない細工(理解の浅い官職への記述)までして「腰越状」を、一応のアリバイとして送った。

でも源頼朝は、この時点ではおそらく怒ってない。

なぜなら、本当に源頼朝が弟・源義経にブチギレているのなら、腰越まで来た時に、捕らえればいいんです。少なくとも、そこにおれ、と軟禁すればいい。

だけど、追い返す形で、京へ戻してしまうのです。

現在の説では、すでに検非違使に任じられていた源義経ですが、壇ノ浦から京に戻った後、源頼朝の推挙により伊予守に任じられます(それは次回のようですね)。「○○守」の中では最高クラスの伊予守になったんだから検非違使は辞めて鎌倉に戻れ、という源頼朝の意思表示だったようですが、源義経はそれに逆らってしまった。

もしかするとその時点で源義経は「鎌倉に戻るのはやばい」と勘づいたのかも。

だけどまあいいじゃないの京におじゃれ、と影響を及ぼし続けた後白河法皇と鎌倉は、源義経を媒介に、対立構造になっていく過程でもあるわけですね。

「次は、鎌倉で会おう」という北条ヨシトキ(小栗旬)との約束は、果たせぬことに。

北条ヨシトキではこの兄弟の仲を取り持つのは、無理なのか…。

 

今回の『鎌倉殿の13人紀行』は、ここでした。

赤間神宮







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