「政」は「まつりごと」と読みますよね。
古代には祭祀と統治がすごく近い、またはぴったり同じだったと言われています。
ざっくり言うと、占いでいろいろ決めてた、ってことですね。
確かに現代のような科学はないから、天変地異や気候の移り変わりも「神々がやってること」という認識だったでしょうし、それとの橋渡しをする役目の、シャーマン的な人がそのまま、卜占(ぼくせん)とともに政治の中枢を担うことになるのは、まさに自然なことだったでしょう。
女王・卑弥呼は「鬼道に事(つか)え能(よ)く衆を惑わす」、と『魏志倭人伝』に書いてある。当時の魏の人から見ても「鬼道」に見えたんだから、それはもう祈祷とかを超えたような手法だったのでしょうね。だけどそれが、統治法の中心だった。
今は「政治」と書きますが、「政治」はつまり、「治」めるためのマツリゴト、というような意味になりますよね。
とは言え、「政治って何」って問われたら、国家によって地域によって歴史によって常識によって、または宗教によってもリーダーの優劣によってもぜんぜん違ってくるものでしょう。
それに、同じ観念として「政治」が世界共通なら、国が分かれてること自体がおかしいわけですから、やっぱり「政治」っていうのは変化していくもの、なんですね。
「政」を「マツリゴト」と読んで、「所」を「ドコロ」と読むならば、「政所」は「マツリゴトドコロ」としか読めないです。
なのに、なぜこれが「マンッ」と略されてるんでしょう。
いったい何があったというのだ…その答えは、わかりません。
なんでこんなに大胆に略したのか。
最後に「ん」をつける用法は、上方に顕著な方言だったりしますよね。
「お菓子」を「おかしん」と呼んだりする。
それは子供じみた言い回しなのかもしれませんが、上方的用法で「杓子(しゃくし)」を「しゃ文字」と呼んだりするパターンがあるように、難しく言いにくい用語は「先頭の文字と、ん、を組み合わせてしまう」という大胆な省略法があったのかもしれません。
いや、もっとちゃんとした理由があったんだろうけれど。
「政所」は、役所の名前です。
そして時代によって少しずつ、仕事の内容は変わっていきます。
それは当然ですよね。
社会が変わっていくので、役所の名前は同じでもその性格が少しずつ、変化していくんですね。
そもそもは、公家・または親王(天皇の子)の、家のことを取り仕切る役所、だったようです。
家のこと、というのは炊事洗濯のことではなくて、どこから年貢がどれくらい来て、資産としてはどうなってて、遠い荘園・領地でのモメごとは誰に頼んでどうやって解決して…というような、個人事務所的な役割を担ってたんでしょう。
昔は伝達はすべて文章で、紙で来ますから、その管理もやってた。
公文所(くもんじょ)としての役割もあったんですね。
公卿・親王は公的な存在ですから、公的な文章を管理する、実務的な部署。
その実務機関が鎌倉幕府になってから、政治的な問題を取り仕切る役所として俄然、大きい扱いを受けることになりました。
初代将軍・源頼朝は、「朝廷ではなく、うちがやりますんで」的に、公的な役所として「政所」を重大なポジションに据えた。なにせ財政と政治的なやりとりを一手に引き受ける役所なんですから、ここは重要です。
なので「政所のえらい人」となると、かなりえらい人なわけです。
一番えらい人の初代を、大江広元(おおえのひろもと)に任せました。
源頼朝だけでなく、2代目も3代目の時も、「なにかあったら聞きに行く」というくらいに大江広元は、重鎮中の重鎮として初期鎌倉幕府を支えます。おかげで「大江幕府」と揶揄されたりすることもあったりして。
政所は、「公家・または親王(天皇の子)の、家のことを取り仕切る役所」と書きましたが、具体的には官位として「従三位以上」でなければ設置できない決まりなのだそうです。
それ未満の身分の人は「公文所」だぞ、と。
源頼朝が「従三位以上」に昇進したのは文治元(1185)年の4月です。
3月に、壇ノ浦で平氏は滅亡させた。
彼は「従二位」になりました。
こうなると、上級貴族として「政所設置」の資格ができるんですね。
「お前は従二位なので、政所を作ってよろしい」なったんです。
逆に言えば1年前までは「正四位下」なので、「政所を作ります!」と言っても「え、無理じゃんお前従三位以上じゃないじゃん」と却下されてたでしょうね。
ここって割と不思議なんですが、官位やそれにまつわる決まりって、天下を統一したイメージの鎌倉幕府も、ものすごくかっちり守るんですよね…。
「うちが勝手に作ります!」という感じではぜんぜんない。
鎌倉武士の常識(平安武士と言ってもいいけど)は、朝廷から官位を賜って出世することが最も重要な「宇宙の法則」みたいなものだったのでしょう。
実利としては武士階級を守るためにいろいろやるけど、その後ろ盾・権威として朝廷・京都・天皇を奉るのは疑うべくもないベーシック、なのですね。
源頼朝が死ぬ(1199年)と、子供の源頼家(みなもとのよりいえ)が2代目になるわけですけれど、父親が急逝した時点では、家督は継いだもののまだ「正五位下」なのです。
「従三位以上」になるのはそれから3年後の建仁2(1202)年1月。
ということは、源頼朝の政所はあったけど、彼が死んでからは鎌倉に、3年間「政所を設置できる資格のある人がいなくなる」ということですよね。
じゃあ初代が設置した「政所」は3年間も、「違法状態」で運営されてたんでしょうか。
三代目・源実朝(みなもとのさねとも)の時も同じです。
三代目将軍にはすぐになったものの、「従三位以上」になるのは、実にその6年後です。
その間、設置資格のない人がいない状態(鎌倉には将軍より官位の高い人はいない)で、なんとなく運営されてたんでしょうか。
実態としては「官位はまぁ別として、役所としては機能してるでござるよ」ということなんでしょうかね…。
「政所」があるということ自体が、そこに「官位の高さ」を表すことでもあるわけで、鎌倉幕府としてはその統治の正当性を明らかにする、重要な役所だったのですね。「クモンジョじゃねえよ、マンドコロだぜ!?」っていう感じ。
別の言い方をすれば「将軍家政所」っていうことですね。
で、その「政所跡」が、ここにあります。
どこなんだこれは。
ここには今、「あおば薬局」さんになっています。
良く見ると…。
建物にプレートが。
「政所」の痕跡は、これだけです。
だけどですよ。
別になんの責任もないのに、歴史的な痕跡をとどめてくださっている「あおば薬局」さん、すごくないですか。「政所跡」のプレートを外壁に設置する義務なんてないのに。「あおば薬局」さんが厚意で、歴史都市への敬意と貢献で設置されてるんでしょう?ありがとうございます。
だって、「ここに政所があったそうですね」とお話をうかがったとしても「まぁ、そうらしいですねえ…」としか言いようがないじゃないですか。誰だってそうでしょう。
「ええ、その時、別当・大江広元が座ってた椅子が残っています。今、主任が座ってるのがそれです」とか、あるんだろうか。
この場所は、鶴岡八幡宮、御所、そして東西をつなぐメインストリートとして使われていた道沿いにあり、つまりは「庁舎街」みたいな感じだったと思われます。
違う「政所」
ちなみに、全国地図(Googleマップ)で、「政所跡」で検索すると、1ヶ所だけ別のところが出てきました。
それが、ここです。
兵庫県にある、多田神社。
多田神社
http://www.tadajinjya.or.jp/御祭神は、第五十六代清和天皇の曾孫贈正一位鎮守府
将軍源満仲公をはじめ、頼光、頼信、頼義、義家の五公
をお祀りしています。源氏発祥の地である多田は、源満仲公が
摂津国一の宮住吉大神の御神託を受けてこの地に館を構え、
荘園開発及び武士団を構築しました。子孫である清和源氏
一門は繁栄を重ね、鎌倉・室町・江戸と約700年に亘る
武家社会の担い手となったのであります。
え、源氏の五公。
この回に載せました、系図を見てきてください。
源頼朝の先祖。
清和源氏と呼ばれる直系の人たちです。
源満仲(みなもとのみつなか)は、多田(ただ)という土地を本拠にしたので「多田源氏」と呼ばれて、その流れでここに祀られてるんですね。
「源氏三神社」の1つ。
「鬼切丸」はここにあるそうです。
そして多田神社は、東京にもある。
「.tokyo」でドメイン取得してるところがニクイぜ多田神社トーキョー。
試しに「徳田神社.tokyo」で検索してみると…。
↓
81円でした。
しかし、鎌倉時代のような、今回書いている「マンドコロ」としての跡地…とかではないような感じ…よくわからん。
境内には「政所門」や「政所殿」があると書いてあるんですが、中でも「政所殿」は昭和61(1986)年に建築された儀式殿兼武道館、だそうなので、違う。
そもそも「政所跡」なんて無い。
ということはGoogleマップが間違ってるのか…。
源氏つながり、ということでしたが、そもそも「マンドコロ」と読むのだろうか。
単に「セイショ」と読んだりするのでしょうか。
いつか、行って確認してみたいと思います。