落語・オン・トンネルヴィジョン

占いに「裏あり」という裏テーマ【御神酒徳利】

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リュックサック 家紋 徳川・三つ葉葵

 

「ありがたい話」?

旅を題材にした落語というのはたくさんあるが、実際に「江戸〜大阪」を長距離を移動した落語はあまりない。

「御神酒徳利」の主人公は、不可抗力のような形で連れて行かれる。
いい加減に逃げてやろうと思ったりもするが、なぜかすべて成功する。

この「なんだかわからないけれど恵まれている善人」という筋立てが「めでたさ」のような感覚までをも醸成する。真面目に働いてきたことが報われる、という響きがある。

それが理由か1973年3月、香淳皇后(昭和天皇の后)の古希の祝いで、6代目三遊亭圓生による「御前落語」の題目として選ばれたのは有名な話だ。

この「御神酒徳利」は、元は上方落語である。
「占い八百屋」というタイトルで、江戸落語でも同名で残っているが、この場合は設定や長さがかなり違い江戸を出た後、「御神酒徳利」なら第二幕にあたる、神奈川の宿で終わってしまう。短縮版のような趣だ。

「御神酒徳利」はそこから大阪までストーリーを伸ばし追加し、壮大な成功譚に仕上げた。地元ではない大阪の古代の描写などが精緻で、相当力量のある人による改変が行われたのだなと推察することが出来る。かなり凝っているのだ。

上方落語で演じられるそもそもの原型「占い八百屋」は、移動距離としては大阪〜姫路である。これは「江戸〜神奈川」に匹敵する距離と言って良いだろう。
となると上方落語版「御神酒徳利」なら、移動距離は逆に「大阪〜大和〜江戸」くらいにならないと辻褄が合わないが、実際には上方版「御神酒徳利」では旅程は西に伸び、「大阪〜広島に行く途中の尾道」で終幕する。桂文珍版「御神酒徳利・上方版」でその道程を聴いたが、どうにも江戸版を無理やり改変した感がある。江戸版に比べて、広島へ行くための動機づけが小さいのだ。

東海道の「あのあたり」。

江戸を出発すると川崎宿→神奈川宿→保土ヶ谷宿と東海道は進む。
神奈川宿は江戸の旅人が第1泊目にほぼ必ず宿をとる場所であり、それだけに交通・物流の要衝としてかなり栄えていたらしい。

「御神酒徳利」に出てくる大阪の豪商・鴻池善右衛門の使者も年の瀬、12月12日に神奈川宿に泊まり、次の日江戸に到着して馬喰町の「刈豆屋吉左衛門」に泊まり、次の日に帰路、主人公を伴って1泊目で同じ神奈川宿の旅籠に泊まっている。

現代なら馬喰町から東神奈川までは高速道路で32キロほどだ。
江戸時代にはこの距離を歩いて1泊、というのを繰り返して旅をした。

東海道の道程は、江戸・日本橋から京都・三条大橋までの距離で約492kmある。
1日平均約33kmを歩けば、15日で到着する計算になる。
急ぐ旅・健脚な人らなら10日ほどで達しただろう。飛脚はもっと早かったらしい。

それにしても1回の旅で10泊、往復で20泊…かなり大変だ。

神奈川宿

このあたりは幕末、海外の領事館として使われ、大勢の外国人が行き来していた。

すぐ近くの生麦で、まさしく「生麦事件(1862年)」が起こってしまう。
アメリカやイギリスからやって来て横浜に住んでいた商人らは横浜から船に乗り、神奈川宿のあたりで馬に乗り換え、江戸方面に見物がてら、悠々と進んでいたらしい。今は埋め立てられているが、海岸線のかなり近くに街道が通っていた。

京へ向かう薩摩藩・島津久光(しまづひさみつ・薩摩藩主島津茂久の父)の大名行列とそこで行き合い、作法をよく知らず馬のまま、正面から割り込んでしまった。道は当然、現代よりかなり狭くさらに彼らには「道を譲る」とか「馬を降りて礼を尽くす」という作法の知識がなかった。どうして誰かが教えておかなかったんだ。なんだなんだと言っているうちに、殿様の駕籠の近くまで馬で来てしまい、警護の武士たちはブチギレた。血が上った薩摩藩士に分別とか女子供の区別とかそういうものはない。無礼なのは外国人の方であって、同じように日本人が振る舞っても切り捨てられていただろう。ましてや幕末、尊王攘夷運動が盛り上がっている時である。現にこの「生麦事件」は、翌年の「薩英戦争(1863年)」の直接的な原因となる。

そう言えば「御神酒徳利」で、「新羽屋源兵衛(にっぱやげんべえ)」という宿屋に泊まって盗難事件に遭遇する主人公だが、「金七十五両と幕府への密書」を盗まれた当人というのが「薩摩藩士」だった。「生麦事件」で大名行列を愚弄したと外国人を斬り殺したのも薩摩藩(士)だ。

創作上、「神奈川宿→生麦事件→薩摩藩」というのはイメージとしてわかりやすさがあったのかも知れない。

生麦事件の当事者・島津久光はこの殺傷事件のため、予定していた神奈川宿を飛ばして保土ヶ谷宿まで行き、最初の宿泊をしたらしい。江戸からいきなり保土ヶ谷までとなると65kmくらいある。決める殿様は良いが、一気に徒歩で歩かされた家来たちは大変である。

ちなみにこの「生麦事件」、現代の我々からすると「何をやってくれてんのよ…」というところもあるが、当時の人たちは喝采して薩摩藩士たちを賛美した。
京に到着した島津久光に、若き孝明天皇は自ら「よくやった」と誉めたという。
この時に、山階宮晃親王が作ったと言われる漢詩「薩州老将髪衝冠 天子百官免危難 英気凛々生麦役 海辺十里月光寒」は、明治になって多くの人に愛唱されたという。

 

「占い」のポジション

「御神酒徳利」の主人公は旅籠の番頭(通い番頭)であり、前身(?)である「占い八百屋」の主人公は八百屋の男だ。

占いをすることになった動機もかなり違う。
「御神酒徳利」の主人公は大掃除で紛失してしまったら大変と、お店(たな)の家宝を安全な水がめに沈めて、それをうっかり忘れてしまったことを気まずく思い、窮地の策(しかも女房の機転)で始める。

原型である「占い八百屋」は、出入りの商家の女中に嫌がらせをするために、徳利を水壺に沈める。それを自分から出してあげようと宣言して始める。徳利じたいも、主人が若き頃から所持している錫(すず)の徳利らしい。「御神酒徳利」では、葵の紋の入った、将軍家から拝領の磁器(?)の徳利だ。

原案としての「占い八百屋」は、ただただ奇妙でアイデアに溢れた面白い噺であり、このままでは御前落語として選ばれるようなものにはなり得ないと感じる。メインのプロットは「失せ物」を探すことであり、それに「占い、実は裏あり」という皮肉が使われている。そろばんを使うのも、「理論と正反対」という占いへの皮肉だ。

失せ物(紛失物)をあるていど探し、もう手の尽くしようがないとなったら「失せ物探し」の占いが、ごく当たり前の手段として受け入れられている様子が描かれている。占いや易などが当然のものとして日常に溶け込んでいる様子があまりにもあっさり「やってもらえるなんてありがたい話」というニュアンスで受け止められている。現代ほどには、占いに対する皮肉が感じられない。「怪しげで当たり前」というような揶揄のニュアンスが基本的に皆無だ。だからこそ、主人公たちの「実はそういうカラクリで」というのが面白さになっている。

対して「御神酒徳利」は冒頭に書いた、運の良さ、そして「めでたさ」、そこから滲み出る「報徳の精神」「教訓」のようなものが、細かな設定や格調高い台詞回しなどから感じられる。「失せ物探し」のカラクリは第二幕までは同じだが、主題がそれどころじゃない凄さに昇華していく。

その格調高さには「葵の御紋」の効果もあるが、クライマックスに出てくる、大阪で出鱈目な水ごりでフラフラになった主人公の朦朧とした意識下に現れる、稲荷明神のセリフの役割が大きい。

うっかりすると歴史の勉強になってしまうから、落語は恐ろしい。

われは東海道、神奈川宿・新羽屋源兵衛が地守・正一位稲荷にある。
その方、孝心なる娘を助け、その盗賊の罪を稲荷に塗りつけしその際、驚きいったるぞ。
さにあらず、新羽屋の稲荷なるものは家に祟りをなし霊験あらたかなりとて、その方出立ののち参詣人群衆をなし、宮造営に相成らん。
その上に、正一位の贈り号を賜り、階位昇進なし、文化勲章を賜った。

よってその方、稲荷礼といたして、病気根元を知らしめんと思う。
いかにその方、苦慮なそうとも人間にはあいわからん。
よって通力を持ってこれをしらしめんによって、よっく承れ。

その昔、聖徳太子、守屋の大臣と仏法を争いしとき、当地は難波・堀江と申す一面の入江である湖である。
そが中に、守屋の大臣、数多の物体を打ち込んだるが埋まり埋まって大阪という大都会にあいなった。
それがため、大阪の土中には諸所に仏像・金像が埋ずもれおる。
まった信濃国・善光寺如来も阿弥陀が池より出現なしという放光閣の古跡も残りおる。

当家は大家である。
いずいずみの柱、四十二本目を三尺五寸掘り下げみよ。
一尺二寸の観音の仏体が現れる。

それを崇めよ、娘の病気立ち所に全快なし、まった当家は万代不易にこれあるぞ。
いまだに疑うことなかれ!

まさか江戸の旅籠での徳利探しが、大阪の飛鳥時代の話にまで及ぶとは。

つまり

お前、神奈川で娘の盗みを、俺のせいにしただろ。
だけどそのおかげで「あのお稲荷様はちゃんと祀らないと祟りがある。社を立て直し、丁重に奉納しよう」ということになり、良い待遇になった。
お前にお礼をしよう。
困ってるな?娘の病気を治す方法を教えてやる。

大阪は聖徳太子・蘇我氏vs物部氏による「仏教どうする戦争」があった土地だ。
仏教を排斥したい物部氏は、沼沢地のような浅瀬であった大阪に、仏像を大量に捨てた。
そのおかげで、大阪は大都会になった。

この家は豪邸だ。敷地も広い。
柱の下を掘り下げると仏像が出てくる。
それを拝め。そうすればそのご利益で、娘の病気は治る。

ということだ。解決法が向こうからやってきた!

描写としては稲荷明神は「一百余歳(いっぴゃくよさい)にもなろうかという白髪の翁」と表現されており、この落語が幕末くらいの設定だとしたら崇仏戦争(丁未の乱)は1200年くらい経ってるから、稲荷、ずいぶん見てきたように話すじゃない?と一瞬思ったが、いやいや見た目と言っても1000歳とかっていうのはよくわからないから実在の人間から想像するに「100歳を超えてるように見える」としか言いようがない。そりゃそうだ。100歳を超えたらもう老い方なんてずっと同じだろ、っていう感じもする。

まさか神様本体が(お使いのキツネじゃない)、お礼しに来てくれるとは思わない。なにせ朦朧とした意識にぼんやり浮かんできた妄想かも知れないのだ。だけど言われた通りにしたら本当にそうだった。仏像は出てきたし、それを大事に祀ったら鴻池善右衛門の娘の病はたちどころに快癒した。神様は本物だったのだ。ということは「新羽屋源兵衛」にいた、盗みを働いてしまったまだ若い女中のところにも、稲荷明神はお礼のために、枕元に立ったのだろうか。

現代の感覚からするとすごく不思議だ。
日本の神様が「仏のご利益に授かれ」と指令を出している。
神仏習合のなせるワザだ。
明治になるまで、仏教と神道はピッタリ同一と言っていいほどの関係性だった。神社でお坊さんが読経するなどは当たり前で、「神宮寺」というのもそれである。

 

時空を超えて主人公に話しかけられるくらいの神通力(というか神力)なら、直接的に娘の病気を治してくれればいいのに…。

 







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