落語・オン・トンネルヴィジョン 鎌倉殿の13人

厄介さ、空前絶後なアンチヒーロー【こぶ弁慶】

投稿日:2024年5月3日 更新日:

弁慶 (手塚治虫文庫全集)

 

旅の途中。

大勢が集まる宿屋。
なぜか「土を食べる」という妙な趣味を持つ男。
彼は京都に住んでいるという。

調子に乗ってたくさん食べた古い旅館の崩れた壁土に、実は大津絵として武蔵坊弁慶の絵が、塗り込められていた…。

滋賀県大津市で当時、「大津絵」は民芸品というか、有名なお土産だった。
地名を冠した絵って、現代には例がないような気がする。
東海道の終点間近であり、伊勢参宮の途上でもある大津で売られる絵たちは、道中のお守り・護符でもあった。

松尾芭蕉も「大津絵の筆のはじめは何佛」と詠んでいる。
歳の初めの三が日は、仏については語らない…という風習もあったようである。
この句は「三日口を閉ぢて」という前書きまでされている。

様々な題材が、トレーディングカードのように作られた。
その中に「長刀弁慶(なぎなたべんけい)」がある。

だいたい、大津絵には道歌(教訓的な短歌)が添えられていて、弁慶の絵には

「時にかなふ七つ道具は人の情むさしといふはわたくしでさふろ」
とか
「武蔵坊慈悲さへあれば七つ道具長刀いらず国はおさまる」

などと書いてあったらしい。

そんな絵が、たぶん崩壊した状態で土に混ぜられ、壁土として塗られていた。
もしくは古い壁に絵が貼られており、それに土を塗り重ねる形で補修されていたのか。

それを食べた男の身体に、弁慶が出現する。
「男に出現する」というのはどういうことか。

これは完全に「人面瘡」の話である。

人面瘡と言えば「真景累ヶ淵」にも出てきた。
傷なのか腫れ物なのか、患部がボッコリと大きくなってきて、まるで人の顔のように見えてくる。シミュラクラ現象か…と思いきやそこに人間の顔面の機能まで備わってくる。
業がわざなす怪奇だ。人間の怨念や恨みが、そうさせる。

「こぶ弁慶」と名付けられるとなんだか可愛らしくも思えてしまうが、肩からこんもりと盛り上がった人間の形。顔どころではない。ほぼ半身。
巨大すぎて、これを切除すると本体もおそらく死ぬ。怖い。

それが「武蔵坊弁慶である」とはっきりと自己紹介をするから二度びっくりである。大津の宿・岡屋半左衛門宅で絵になって、お前に食われたのが幸いだった、と、ルートまで本人が完璧に把握している。

ものを食べても、弁慶の腹に収まる。
弁慶が寝てる間を盗んで神頼みをするしかないという悲劇。

人面瘡には「貝母(ばいも)」が効くという。
バイモって何。
アミガサユリという観賞用の多年草で、生薬になるのだそうだ。粉末が咳止めや痰切り、止血、催乳に効くとされた。

なぜかこれが人面瘡の減衰に役立つ…とされている。

サカタのタネ園芸通信
https://sakata-tsushin.com/yomimono/rensai/standard/eastasiaplants/20190514_007834.html

球根は「肉腫」に似てる…?

明治時代にいたっても、人面瘡ははっきりと記録されるほどのインパクトを残している。
1882年(明治15年)、三重県でお百姓さんの足にできた腫れ物が大きくなり、人の顔のように育った。それだけでなく、口を開いて米の飯を一升ほども食べたのだという。京都新聞(の前身の京都滋賀新報)に掲載されている。

「こぶ弁慶」は伊勢参りの道中、新聞に載った明治時代の怪異も三重県。
掲載した新聞が京都滋賀新報、落語の舞台は大津・京都。

この一致は、偶然なのだろうか。

舞台設定とディテールのベースは、もしかすると事実として伝えられた人面瘡のニュースを、下敷きにしたのかも知れない。大津絵は当然大津、人面瘡と言えば三重県、三重県といえばお伊勢参り。

ただの人間の顔ならば飯を食って終わりだが「こぶ弁慶」というくらいだから、最後は大立ち回りになる。

ここで、大名行列に向かって放つ口上が、とても優れているので紹介したい。

我を誰とかなす、
天津児屋根尊(あまつこやねのみこと)、
中の関白道隆公の後胤にして、
母は二位大納言の娘。
熊野参籠の折から別当・弁昌と心通わし、
ついに夫婦の契りを結び、
十八か月経って男子(なんし)出生、
幼名を「鬼若丸」と名付く。

播州・書写の山にて成人なし、
誕生地別当の屋敷に戸籍を残す。
それより京都・比叡山にのぼり、
観慶阿闍梨(かんけいあじゃり)の弟子となる。
そのころ武蔵と言える荒法師あり、
我その法師の跡を継ぎ、
父・弁昌の弁の字と、
観慶阿闍梨の慶の字と、
これを合わせて武蔵坊弁慶と名付く。

宿願の仔細あって五条の天神に丑の刻参りの折から、
五条の橋にて牛若丸に出会い、
名乗れば源家(げんけ)の御曹司。
これより弁慶二十余年の栄華の夢、
くまなく晴れて京都を払い、
屋島壇ノ浦の戦いに、頼朝・義経不和となり、
奥秀衡(おくひでひら)を頼んで下向なる。

我はついに衣川にて立ち往生。
義経(ぎけい)大明神と祝い込まるるまで、
君の御供なしたるこの弁慶、
なんじらごときの下に、
よもや奇怪千万。
何を小癪な!!!!

とものすごい勢いで、生まれから源義経(みなもとのよしつね)との出会いから共に死んだ経緯までを客観的に語ってしまう。

冒頭に出てくる天津児屋根尊(あまつこやねのみこと)という神様は、藤原氏の祖神と言われている。なのでその系譜である関白・道隆公(藤原道隆・ふじわらのみちたか)の子供だという来歴は、天下に誇る血筋を持っているやんごとなき存在なのだぞ!!!ひかえおろう!!という最大級のブラフとなっている。
でも実際の弁慶は、そこまでドラマチックな生涯や存在ではなかった可能性が高い。

平安時代、寺社が持つ兵力は僧兵を含め大変強大で、お寺と言えば宗教的権威であると同時に「軍事組織」の一面もあった。
そんな中、突出した膂力(りょりょく)を持った悪僧(それは強いという意味も含めて)がたくさんいたことは想像に難くない。そんなイメージの集合体が、今日語られる「武蔵坊弁慶」のイメージを作り上げたのではないだろうか。

彼個人が、藤原道隆の落とし子であるという実在は、確認されていない。

弁慶の墓

現在、武蔵坊弁慶は丁重に顕彰されている。

武蔵坊弁慶大墓碑
建立由来

文治五年(一一八九)義経の居城高館焼打されるや、
弁慶は最後まで主君を守り
遂に衣川にて立往生す。
遺骸をこの地に葬り五輪塔をたて、後世中尊寺の僧素鳥の詠んだ石碑が建てられた

色かえぬ松のあるじや武蔵坊

針葉樹である松はその葉の色を変えず、落葉もせず、変わらぬ姿を保っている。
中尊寺の俳人・素鳥は、どんな苦境に陥っても主人を見捨てず、共に永遠の栄誉を願った弁慶の心情を詠んだのだろう。
これが後世の人々にブッ刺さっている。

確かに立派な松の木の麓に石碑が建てられている(「弁慶の松」)。

 

そして周囲には、地元の有志による華やかで清らかな花壇がパーフェクトに整備されており、この地域の人々の誇りを重んじ地元の歴史を尊崇する態度と姿勢が、ダイレクトに感じられた。

 

キャラクターとして弁慶はかなり強く、忠義に厚い。「勧進帳」などの歌舞伎においては義経を差し置いて主役である。そして意地を立て勇気を振るった「立ち往生」がとても有名だ。敵を防いで、主君を守るため、立ったまま死んだのだ。

まったく同じ死に方が、「三国志」にある。


魏の曹操を守るために戦っていた武将・典韋(てんい)が、多くの矢を受けて、立ったまま絶命するのだ。彼も豪傑中の豪傑で、曹操から「まるで悪来(あくらい)の再来ではないか」と言われたほどだ。悪来とは殷の時代の伝説の豪傑で、実は彼の血統が秦の始皇帝につながったのではないかという説すらある。

膂力に優れ、おこないも荒っぽいことから「悪来」はあだ名になり、典韋はいつしか「悪来典韋」と四字熟語みたいな呼ばれ方をするようになる。

弁慶の立ち往生においては豪傑エピソードが、鎌倉時代に輸入された可能性は高い。

 

 

 

 

 

 

「こぶ」と化した弁慶は、何をしに出てきたのか。

今一度この世を、源氏の御代(みよ)に翻さんと心を砕く折から

と、主君・義経を兄である源頼朝(みなもとのよりとも)殺された恨みと勢いをもって、描かれた絵の残骸から蘇ってきた弁慶。

実際は奥州が源頼朝に滅ぼされる前に、ビビった藤原泰衡(ふじわらのやすひら)によって殺された。藤原泰衡はそれ(源義経の首)をもって「ゆるしておくれ」と願ったが、源頼朝は許さなかった。

源頼朝は最初から、ぜったいに奥州を許す気がなかった

「こぶ弁慶」の時代設定は大名行列のある時代だから、実は完全に「源氏の時代」と言えるのだ。

建前ではあるが、征夷大将軍は鎌倉時代以降「源氏の棟梁」が務めるのであって、つまり将軍家は、常に源氏なのである。源氏である室町幕府を倒したという建前から、織田信長も豊臣秀吉も、源氏を名乗ってはいない。

だから弁慶の宿願はある意味もう、叶っているのだ。

大名行列でお殿様が降りてきて、手打ちにすると言う。
どこの殿様かはわからないが、参勤交代の途中だったのだろう。

こぶを切られたら弁慶だけでなく本体の男も死ぬので、男は必死に助けてくれと願う。

するとお殿様は「夜のこぶは見逃しならぬ」。

これが、「本来の」オチなのだそうだ。

それにはもともと「夜の昆布は見逃すな」ということわざがあることを知っていなければならない。
なんで?何?夜の昆布って??と思うがこれは

夜昆布

よるこんぶ

よろこんぶ

喜ぶ

というシャレなのだ。単なるシャレ。素朴な味わい。
喜びは、逃さない方が良いもんね。

しかし、だけど、さりながら。

それでは、急にお殿様が「人面瘡弁慶」に向かって「喜ぶ」と言い出す理由がまったくわからないではないか。

「こぶ」しかかかっていないので、洒落はわかるがオチとしてのしっかりした理由が成立していない。ただ、「こぶ」「よろこぶ」の共通の音感になっているだけである。

 

もう一つ、説がある。

昔は蜘蛛のことをコブと呼んでいた、とイエズス会が記録した日本の紹介本「日葡辞書」に書いてあるそうだ。

蜘蛛をコブと呼んでいたならば、

朝出てきた蜘蛛殺すな
夜の蜘蛛は退治しろ

という迷信との関連性が、出てくる。

これなら「見逃すな(不埒なこぶ弁慶を手打ちにする)」と、意味が通じてくる。

なぜなら、「夜のこぶ(蜘蛛)は退治すべき」だからだ。

オチとして充分、条件を満たす。

つまり「幸せを逃すな」という意味で「見逃しならぬ」と言っているのではなくて「自分にとって不利益・または不吉な蜘蛛=不埒な弁慶の亡霊だから逃さない」という意味になってくる。

朝の蜘蛛は縁起がいい、と、特に上方では言われている。

なぜなら蜘蛛は足が多いので「おあし(お金)が多い」とシャレて、特に商売人の間では「朝の蜘蛛」は、見つけたら懐に入れてしまえ、と言われていたらしい。
蚊帳がないと眠れないほどの環境だった江戸時代、益虫としての屋内での蜘蛛の役割を、理解していたとも言えるだろう。

お駕籠から降りてきたお殿様が発した言葉は、どちらの意味だったのだろう。

蜘蛛をコブと呼ぶ、というのは主に九州で言われていたことなのだそうだが、夜は喜ぶ時間なのか、悪を成敗する時間なのか…オチを発する主体(お殿様)の感情が真逆で、どちらにも取れてしまうのだ。

夜の蜘蛛はアウト。
夜の昆布はセーフ。

落語「こぶ弁慶」においても実際の歴史的事実としても、大名行列が「夜」に京都市中を練り歩いているというシーンは考えにくいので、やはり「夜のこぶは見逃しならぬ」は、おさまりが悪い気がする。ただし「夜のこぶは…」の音感が人口に膾炙した時代だったならば、オチとして夜も昼も関係ない雰囲気があったのかも知れない。

 

やはり説明が必要になりすぎるオチであるからか、多くの噺家がオチを変更している。

「義経にせねばなるまい」とお殿様が言うという、「義経・弁慶」は出すだけでおさまりがつく名コンビとしての日本人への刷り込みを利用したオチ。

とは言え「ヨシツネにする」っていうどういう動詞????と思っても、なんとなくスルーしてしまうしかない。なんとなく強引な「青菜」の終わり方と、対になっている状態だ。

驚異の人面瘡「こぶ弁慶」。

設定がすごすぎて、「天神山」同様、主観が旅人だった男から、壁を食って弁慶を宿す男にいつの間にか完全にすり替わっている。

この後、弁慶とその、宿主の男がどうなったかはわからない。

 

 







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