たまに、同じジャンルの本をやたら読むことがあります。
ここ数年はずっと鎌倉幕府の本を読んでおりまして、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が放映される2022年の年始、関連本が凄まじい数、出版されております。
だいたい同ジャンルの本は、10冊読むと、中身がかぶってきます。
鎌倉時代を例に取りますと、約800年前の資料乏しき時代の研究結果を、碩学の先生方が努力の末、わかりやすく解説してくださっている新刊・文庫・冊子が大量にあるのです。
偉い先生方も、研究するにあたってはその時代の同資料にあたるしかなく、その解釈はよほど斬新でない限り、覆ったりはしないのであります。
そこから、我々一般人が読みやすいように古文を現代文に訳し、解釈を加え、その意味を教えてくださるんですね。「歴史好き」を自称するならば、本来は古文書くらいすらすら読めないといけないんですが一切読めません。学者様様です。
で、似た内容(タイトルもほぼ同じだったりする場合もある)の本を読んでいると、やっぱり同じ件で、同じことが書いてあります。
当たり前といえば当たり前です。
例えば
「『吾妻鏡』は北条氏が編纂したもので、欠落したのかわざと書き残さなかったのか、初代将軍・源頼朝についての詳細が書いていない。」
「『吾妻鏡』には二代将軍・源頼家を、愚なる棟梁に仕立て上げるかのように書いてある。これは北条氏が編纂した書物であるだけに、北条氏の政治的正当性を主張するために、源頼家は政治に疎く悪辣なボンボンであった、としておかなければいけなかったからだ。」
みたいな件が、必ず入っています。必ずです。
思えばこれらも、鎌倉時代後期や室町時代には完璧にはできなかったであろう解釈であり、逆に江戸時代に突入すると歌舞伎や浄瑠璃で、昔の時代の印象は固定されてしまっているという事情があったはずなので、現代でしかなし得ない分析、だったりするのでしょう。
現代ですら、「赤穂事件」と聞けば「忠臣蔵」のイメージが浮かびます。
「仮名手本忠臣蔵」というお芝居の衣装・セリフ・雰囲気を、実際の事件よりも強く印象として持っているのです。そういうものですよね。
ここからが効能です。
同じジャンルの本を読んで、何冊、何十冊読んだとしても、必ず同じことが書いてある箇所があるということは、そこにぶち当たると「始まった…!」と感じることができるということです。まさか定説と真逆のことが書いてあったりすることは確率としてすごく低いので(新説や異説は最初に断り書きがあったりする)、読み飛ばしてもいいくらいなのです。
それを私は「球が止まって見える」と呼んでいます。
小見出しで、すでに内容がわかってくる。
で、大切なのはここから。
ここも知ってるお、ここも覚えてるお、くらいのペースで読んでいると、逆に「どの本にも書いてないこと」が気になってくるのです。
紙幅の都合もあるでしょう。
謎を謎のまま、無責任にほっぽり出して書き散らすよりは、わかっている事実、固定している解釈を丁寧に解説した方が真摯だ、という先生方の、学者としての矜持からくるものだと思います。
でも、気になるんです。
例えば、これですね。
だんだん、「あれ…?先生方、ここ、ワザと無視してますよね??」と感じてくるくらい、書いてないんです。どこにも書いてない。言及さえされてないことが多い。
あらゆる本は謎解きをしているわけではないので、明確な答えなんか求めても仕方ないんですよね。そもそも無理がある。正解なんかない。証人もいないし映像もない。
『吾妻鏡』にさらっとそう書いてあるだけなのでそれ以上探索のしようがない、ということなんでしょうね。
現時点では(まだ読んでない本に書いてあるかも知れませんが)、その答えというか行末を推察する上で役立つのは、葉室麟氏の小説『実朝の首』しかありません。
それくらい、想像を逞しくしないと不確定要素が多すぎて、歴史家が「仮説」まですら辿り着けないということなのだと思います。
たくさん読むことの面白み、はそこにある
複数の本に、ほぼ同じ筆致で書いてあることが明確に理解できていく次の段階には、「書いてないこと」が逆に浮かび上がってくる現象が起こります。
それが楽しいことなのかどうかは人によるでしょうけれど、謎が謎のまま、放置されているということは今後、解明される様子を知る喜びが残されているということでもあるので、楽しみは続くのであります。
つまり「何を読めばいいですか?」という最短最小のコストで何かを得ようとする限り、得られるのは「どの本にも書いてある手垢のついた月並みな、素人向けの解釈」に過ぎなくなるということでもあるということですね。
↓これも持ってるんですけど、上手にまとまり過ぎてて逆に読みにくいというわけのわからない負担が…。