わかえじま、と呼びます。
鎌倉は、若宮大路がズドンと鶴岡八幡宮からまっすぐ伸びた先、由比ヶ浜には港を作れなかったんですね。
前は海、三方を峻険な山に囲まれているからこその、万全の防備。
前が海だと、現代の我々は「開かれている」ととらえてしまいますけれど、感覚としては多分、「閉じている」に近い感じだったと思うんです。
漁師もいて、海運もあったでしょうけれど、それは安全保障としては「安易にやってこれない壁」として作用してた部分が大きいのではないでしょうか。
元寇がやってきた1274年、それは日本海側でしたけど、やっぱり「海」は、日本を守る壁になってくれました。
海を渡って外国を攻める、というのはなかなか、実現できることではないのだという認識。
ペリー来航で、開国を迫られる段になって初めて、壁だと思ってた海が、すべて通路だという認識に、ひっくり返ったのだと思うのです。
太平洋を渡って来れるような船が普通にあるのなら、もう海は、障害物にはなり得ない。
海があることで、海を壁として、完全防備を完成させた徳川幕府。
だけどある日、「丸裸」だと気づかされたということですね。
平安時代にはまだ、海は怖いもので、遠洋を渡るのは命がけの遣唐使くらいで、鎌倉時代初期になっても変わらず、その感覚は強かったでしょう。
瀬戸内海で平家の海軍を打ち破った…!のはすごいけど、太平洋のど真ん中での海戦、とかではないぶん、やっぱり海は「とりあえず攻めてこないから安全」というイメージがあったのかもしれません。
そして鎌倉の眼前に広がる海は、やたら遠浅で、ほんとに海軍では攻められないんですね。
もし、海側から船で敵兵が攻めるにしても、けっこう沖の方に停泊して、小さい船に兵士が分かれて乗り換えて、船底が砂の海底に着くところまで来て、あとはザブザブ、水に足を突っ込んで上陸しないといけない。
こんなの、よほどの大軍であっても、浜に待ち構えられたらかっこうのターゲットです。
山は無理だった。海は…
実際、鎌倉幕府滅亡にいたって、新田義貞(にったよしさだ)が攻め入った時、山側からの軍勢はすべて打ち破られてしまいます。
鎌倉方の守りは完璧。
なので新田義貞は、西側の稲村ヶ崎から、干潮で広くなった砂浜を突撃して鎌倉に入ったのだそうです。
ここには「金の刀を海に投げたら潮が引くという奇跡」というような伝説もあったりするんですが、それってどうなの…と、思わなくはないです。
こんな海際で暮らしてる人らが、「満干の時刻」を知らないわけがないと思うんですよね。
そんなの、1週間も住んでたらわかるでしょう。
鎌倉を守る幕府方も、そんなの知ってるはずです。
「切通(きりどお)し」と呼ばれる山側の守備は完璧なのに、早朝に広くなる砂浜はほったらかし…それなりに防備の軍勢は配置したんでしょうけど、「砂浜を走ってくるなんて!」っていう、当時の軍法にはないような奇手、だったってことなんでしょうかね…。
大型船なんて無理に決まってるっちゅうのに
建保4(1216)年、三代将軍・源実朝は、なぜか「中国へ行くのじゃ」と言い出し、大型船を建造します。
国を統べる立場の将軍が外国へ行く…というのは、もはや奇想天外すぎて周りの人も秒単位でドン引きするレベルだったと思いますが、彼は本気だったんです。
本気で建造して、翌年には完成して、由比ヶ浜で進水式したら、船底が砂に擦って失敗。
海に浮かぶことすらなく、その場で朽ち果てたそうです。あらまぁ。
いや、わかるでしょ???って思いません?
鎌倉を拠点にする政権のトップが、「この船が、この浜から外海へ出られるかどうか」を把握できてないって、なんなんだよと。
お坊ちゃんすぎて、そういうのも知らなかったんでしょうか。
渡宋計画が持ち上がった時、ほとんどの御家人たちは「まじかよ…」って思ったはずです。
政治よりも和歌に興じる鎌倉殿が、「天下のわがまま」として外国へ船で行くと言い出した。
ああもう、そんなの無理に決まってるし、警護どうすんのよ誰が着いていくのよっていう現実的な問題とか、そもそもそれって宋(南宋)への朝貢っぽい感じにならない??とか、将軍以外の全員が「絶対無理。」と1秒以内に考えるような無茶、だったんですよね。
「由比ヶ浜は遠浅で無理ですよ」の一言さえ、誰も将軍に伝えなければ、どんな大型船であろうが進水できないんだから、とりあえず逆らわず(財政は疲弊するけれど)放置して、船の完成を待って目の前ではっきり、本人にあきらめさせればそれでいいや…と、北条ヨシトキ以下、みんなで黙ってた可能性、ありますよね。2年後に殺されます。
大きな船は無理、ということで、由比ヶ浜は港には適さない浜、だったんですね。
「和賀江島」ができるまでは、港といえば六浦(むつら)まで行くのが当たり前で、今は京急の「六浦(むつうら)」あたりは、栄えに栄えた港町、だったんでしょうね。
鎌倉から、いちいち山越え(朝比奈の切通しを超える)しないといけないんだけど、鶴ヶ丘八幡宮・幕府あたりから伸びる道は「六浦路(むつうらみち)」と呼ばれていたそうなので、つまりそれはかなりロジスティックにも重要な、物流の拠点だったんですね。
この辺り。
だけど、やっぱり近い方が楽に決まってる。
北条ヨシトキの嫡男・北条泰時の時代、ちょっとずらした「和賀江」というところに、港を作ることになったと。
新しく、近くに海からの物流拠点を作る必要を幕府が認めざるを得ないほど、人・物の流入が盛んになってたということですよね。
石をたくさん海に沈めて、陸地を作った。
築島・築港とも言いますね。
今は使われていないです。
やってまいりました。
現在は史跡として管理されているようです。
和賀江嶋は、日本に現存する最古の築港遺跡です。
このあたりは、遠浅で荷の上げおろしが難しく、大風や波浪で難破する船が多くあったことから、
貞永元年(1232)に勧進僧の往阿弥陀仏(おうあみだぶつ)が港を造ることを幕府に求め、
第3代執権北条泰時の援助を受けて完成したことが『吾妻鏡』に記されています。
その際、石材は相模川や酒匂川(さかわがわ)、伊豆半島海岸など遠くから運ばれてきたと考えられています。
この付近は和賀江津と呼ばれ、中世都市鎌倉の海の玄関口として、海上交通や物流の拠点となっていました。
江戸時代までは修復されながら利用されていましたが、潮の流れや災害などで石が散乱しており、築造時の姿はわかっていません。
現在も普段は海没していますが、干潮時には正面に島状の石積みが姿を表します。注 意
この史跡に対して、みだりに現状変更(掘削、工作物の設置等)や保存に影響を及ぼす行為を行うことは、文化財保護法により禁止されています。平成24年3月
鎌倉市教育委員会
守られてるんですね。
逆に考えると、文化財保護法の適用がなければ、いくら鎌倉時代の遺跡であろうが貴重であろうが、現状変更には特にストッパーは働かない、ということでもありますよね。
ここは守られてるので、迷惑系YouTuberによる「和賀江島が今でも港として使えるのかどうか、漁船で乗りつけてみた〜!」っていう動画ネタとしては、使えないっていうことですかね。どうなんですかね…。
海を見ると。
確かに、うっすらと「陸」のようなものが見えてますよね。
あそこであんな風に波が立つのがその証拠。
ちなみに後ろはこの断崖です。ほぼ直角。
ローマの街道で海際、こんなところを写真で見たことあるような。
手前には船が浮かんでます。
これって、当然無人なんですけど、あれですかね、「ここにはなにかありますよ」ってわかるように、目印として浮かべてあるんでしょうかね。
ジェットスキーとかボートの人が突っ込んでこないように、っていう。
その脇に、史跡碑が建てられていました。
回り込んでみたんですが、この階段を降りると濡れます。
もうちょっと干潮時にこないと行けなかったんですね。
新田義貞のごとくに。
干潮時なら、歩いて碑のところまで行けるっぽいです。
2021年、4月上旬の干潮は午前1時過ぎくらいだったようです。
ちなみに新田義貞が鎌倉攻めをした時の干潮時は、午前4時15分だったと言われています(その2日前の午後の干潮時だったという説もある)。
和賀江島
和賀トハ今ノ材木座ノ古名ニシテ此ノ
地住昔筏木運湊ノ港タリシヨリヤガテ
今ノ名ヲ負ウニ至レルナリ和賀江島ハ
其ノ和賀ノ港口ヲ扼スル築堤ヲ言イ今
ヲ距ル六百九十餘年ノ昔貞永元年勧進
聖人往阿彌陀仏カ申請ニ任セ平盛綱之
ヲ督シテ七月十五日起工八月九日竣功
セルモノナリ
大正十三年三月建 鎌倉町青年団
うーん、遠い割にはよく読めた。望遠レンズありがとう。
こういう碑文て、ほんとに読もうとする人の頭にしか入ってこないように書いてありますよね…。
和賀とは、今の材木座の古い名です。
この地は、昔は木材の運送のための港だったために、今の材木座という名前で呼ばれるようになりました。
和賀江島は、和賀の港を守るために作られた堤です。
今から690年以上前の昔、貞永元年に、勧進聖人・往阿彌陀仏が申請し、平盛綱(たいらのもりつな)が援助して七月十五日に工事を始め、八月九日に完成したのです。
平盛綱というのは北条家の家令(かれい。家のことをいろいろやる職員みたいな人)で、執権・北条泰時を支えた人です。
この史跡碑が大正3年に建てられてます。
今(2021年)からすると107年前(1914年)。
ということは今、この碑文を書き換えるとしたら「今ヲ距ル七百九十餘年ノ昔」ということになりますね。
Googleマップの航空写真だとこういう感じに。
ちなみに、鎌倉側(由比ヶ浜)方面から見た和賀江島です。
ほら、あの断崖が。
鎌倉観光公式ガイド
和賀江嶋(わかえのしま)
https://trip-kamakura.com/place/241.html