エンタメ、なので、本当は別に本気で憎んだり批判したりしたい気持ちはないんですけれども、
なぜ人気? エンタメ界に進出する“お坊さん”
https://www.oricon.co.jp/special/49283/
お坊さんやお寺は、ある種「緊張とともにある職種」ですよね。
普段あまり知ることのできない内情や、特異なスタイル(丸坊主とか袈裟とか)が、『緊張』を保持する役割を持っていて、それを、バラエティなどのトークや美麗な写真(イケメンである事)などが『緩和』してくれる。
この『緊張の緩和』効果が、エンタメに向いている、ということなのでしょう。
問題は、その『緊張』部分にあります。
今の仏教は、「葬式仏教」と揶揄されるように、「死」に近い存在として扱われていますよね。
誰かが亡くなったりしたら、いやそんな時にしか、お寺へは行かない。お坊さんとは合わない。
あとは初詣とか?ですね。
人生でそんなに何度も関わるのは昔からの檀家の人くらいで、ほとんど触れません。
今の都市部では、仏壇なんて家にないし、近所のお寺も「ポケストップだ」くらいの認識しかない。
そういう都会の事情が、高度成長期には新宗教の台頭の、地盤になったんですね。
でも急な時にしか用がないからこそ、その「仏教の値段」は闇に包まれている部分がある。明朗じゃない。
そういえば以前、Amazonがこの明朗サービスを展開したら、日本仏教界はてんやわんやに。
全日本仏教会がコメントを出すほどの衝撃だったようです。
全日本仏教会理事長談話
「Amazonのお坊さん便 僧侶手配サービス」について
http://www.jbf.ne.jp/news/newsrelease/1600.html
<現在、このページは消えてます>
去る12月8日、「Amazon」は僧侶手配サービスを販売開始しました。これは、「株式会社みんれび」が2013年から展開している「お坊さん便」というサービスで、全国どこにでも定額で僧侶を手配するというものです。
背景には、「読経してもらいたいが、お寺との付き合いがない」「お布施をいくら包めばいいのか不安」といった社会からの声があるといいます。
これには、販売当初より大きな反響とともに賛否の声が寄せられており、定額で分かり易いという声がある一方、仏教界からは宗教をビジネス化しているという批判が起こっています。
私ども公益財団法人 全日本仏教会は、宗教行為としてあるお布施を営利企業が定額表示することに一貫して反対してきました。お布施は、サービスの対価ではありません。同様に、「戒名」「法名」も商品ではないのです。
申し上げるまでもなく、お布施は、慈悲の心をもって他人に財施などを施すことで「六波羅蜜(ろくはらみつ)」といわれる修行の一つです。なぜ修行なのかというと、見返りを求めない、そういう心を持たないものだからであります。そこに自利利他円満の功徳が成就されるのです。
今回の「Amazonのお坊さん便 僧侶手配サービス」の販売は、まさしく宗教行為をサービスとして商品にしているものであり、およそ諸外国の宗教事情をみても、このようなことを許している国はありません。そういう意味で、世界的な規模で事業を展開する「Amazon」の、宗教に対する姿勢に疑問と失望を禁じ得ません。しっかりと対応していきたいと考えます。
今回のことを通して、私ども伝統仏教界は、お寺は相談しにくいという声を真摯に受けとめ、社会のニーズに耳を傾け、これからの教団・寺院運営に反映していかなければならないことを付言しておきたいと思います。
2015(平成27)年12月24日
公益財団法人 全日本仏教会
理事長 齋 藤 明 聖
こういうサービスもありましたよ。
なんて明朗なんじゃ。
今はもっと増えてます。
が、仏教会からすると、「宗教行為をサービスとして商品にしている」ことが問題なのだそうです。
そもそも仏教では、出家者には「労働」を禁じているんじゃなかったでしたっけ。
だから、「お経をあげたからその対価としてお金をいただく」というのはこれもう「労働」ですから、そういうことはいけないんだと。
「戒名」「法名」も商品ではないんだと。
なんだかもう、凄まじい勢いで中国の故事が脳裏を走馬灯のように駆け巡りますよね。
最強の盾と最強の矛のやつが、です。
お坊さまには「お布施」という形で、心を表す行為として、不定の額を、それぞれに、気持ちとしてお渡しする、それが功徳(くどく)だ、ということなんですね。
労働の代償として金をもらう、というのは、もうこれは「破戒」なんだと。
和尚様、どの口ですか?
なんというか、よくそんなことを平気なお顔で言えるんですね、と言いたくなりません?
というか、そもそもロレックスを腕に巻いて、街中で、ベンツに乗って移動しているお坊さんは、「出家」してるって言えるんですかね??
完全に欲界に膝上くらいまで、いや首まで浸かってるようにしか見えないんですけど。
いつの間にか、浄土真宗でもないのに肉食妻帯を平気でしているのが、日本のお坊さんたちです。
平気で、当たり前にしてますよね。
これに触れるのはある種、タブー化してるらしいです。
なんで!?僧侶なのに!と問い詰めたとしても、「人権」を盾にすることが現在は可能ですから、詰問するだけ野暮、てなもんなんでしょうか。
人が死んだら、戒名をつけてお金を取る。
「院」が一番高い。
宗派によって違います。
高いお金を払えば、「院」をつけてもらえる。
この慣習について、どんな顔で説明するんでしょうね。
また、平気な顔なんでしょう。仏の顔って、何度まででしたっけ?
戒名は、「戒を守るぞ」という意味で仏門に入った者に授けられる名前であって、「死んでからの名前」ではありません。
勝手にどんどん意味も用法も改変していって、どうやら今の日本の仏教はまさに「日本教」と呼ぶしかない形態になっており、お釈迦様の言ってたことを守る気、そもそも全然ないみたいなんですね。
自慢の二代目。
以前、ある宗派のパンフレットを見たことがあるんですけど、そこには各所のお寺が紹介されていて、皆、ご住職と共に、「息子さん」が写ってました。
現職の名前の一字を息子にたいていつけていて、「次のご住持はこの方ね」と近所の檀家が知れるような取り組みなんでしょうが、いつから仏教は、世襲していいことになったんでしょうね。
確かお釈迦様は、ご自身の子供に「障碍(ラーフラ)」とまで名前をつけた、はず…なのに…。
ことほど左様に、日本の仏教に、お釈迦様の教えも精神も、ありません。
もちろんお坊さんには立派な方がたくさんおられるし、修行を積んでおられる方もたくさんおられます。
多分そういう方は僧侶にならなくても立派な方だったんだろうなぁ、と思うしかないんです。
現実のほとんどの僧侶たちは、仏教とはかけ離れた、因習にまみれた「土着の宗教関係者」「エセ僧」という風に言うしかない、んですよね。
人格の立派な、徳の高い法話をされるお坊さまもいらっしゃるとは思いますが、「お釈迦さまは…」などということを言う資格は、破戒に破戒を重ねている破戒坊主にはない、というしかない場面が、多くあると思います。
だからと言って法事やお葬式に来られる和尚様に、いちいち食ってかかるということはしたいとも思いません。
「土着の因習」は大事です。
あれを仏教だとは思ってないので、田舎の慣習として、セレモニーとして、これって大事よね、と思うに過ぎません。
今や宗教も、エンタメ要素は必要なんだと思います。
思えばお寺も仏像もお祭りも、いわばエンタメですもんね。
だから、時代と共に色々と変革していくことは、必要なんでしょう。
仏教が持つ根幹的な哲学や智慧は、日本程度の坊主ども程度がいくら都合よく変えようとしたって、変えられるものではないでしょうし。