人は誰でも、「人のせい」にしたくなるものです。
どんな仕事であっても、人間関係が一番たいへん。
みなさんそうおっしゃいます。
人間関係のツラさに比べたら通勤も、重い荷物も長時間労働も、大したことはない。いや、ほかのツラさは、ぜんぶ人間関係が原因で起こってるんじゃないのか、とすら思うくらい。
“あの人さえいなければ…”。
“なんであの人はああなんだろう…。”
“なんで自分がこんな目に…”
つまり、「あの人のせい」。
基本的に、「人のせいにする」のが、我々は異常に上手いのです。
それをまず、最初に知っておきたいところ。
デフォルト設定として「他人のせいにするのが上手い、それが人間」。これを知っておきたい。
自分を守るために、自分のせいにせず人のせいにするような機能が、そもそも装備されているかのような。
同様に我々は、「人」だけでなく「環境のせい」にするのも上手いですよね。
「周りの人のせい」「生まれのせい」「街のせい」「学校のせい」。
「教育のせい」「友達のせい」「テレビのせい」「親のせい」。
「親のせい」は「人のせい」であり同時に「環境のせい」、ということになります。
これやってると、永久に楽なんです。
だって自分は悪くないから。
そう、「あの親のもとに生まれてしまった!」は、絶対「自分のせい」ではないもんね。「I was born」なわけだから。家庭環境も自分では選べないから、自分は悪くない。
しかし残念ながら、この「自分は悪くなく、他の要素が悪い」という内容を何度も繰り返していると、それはそれで傷つかないんだけど、「じゃあどうしたら良くなるだろう?」っていうアイデアは、永久に湧いてこないんですよ。だって悪い原因と責任は、他人にあるんだから、その他人が変わらない限り、良くはならないってことになる。良くならないからにはツラいのが続くんだけど、「悪いあいつ」がいなくならない限り、改善される見込みはない(と思い込むことになる)。
「あの人のせい」は極端な話、「死ね」と呪ってるのと同じだったりするんですよ。
ただし、常に物事には「2面性」以上あります。
これも知っておきたい。
悲しいかな、常に2面以上ある。
善悪ではなく、2面以上ある。
どんなことでも、自動的に2面は必ずある。
例えば紙一枚にしても、何か書いてある面があれば、必ず裏面がありますよね。裏面無くして、表だけがある、ということはあり得ない。
「自動的に2面ある」というのはそういう意味です。
何にでも2面以上あるのは仕方がないことなんですが、普通はどちらかを社会的規範とかで「悪」だと決めているので、取りざたされないんですね。
「善悪ではなく」という部分を、少し説明します。
例えば、歩いていて、上からビル工事の道具(スパナ)とかが落ちてきて、直撃して大怪我したとする。
これ、誰が悪いのかといえば、落とした階上の職人が悪い。または、そんな体制で作業をするしかなかった現場責任者、監督、および工務店が悪い。
事故ですからとうぜん、治療費、賠償責任が発生するでしょう。
早く良くなるといいですね。
これで済む話です。
でも、本当は、そんな目にあったのには「2面性がある」。
そんなとこ、歩いてたのが悪いんです。
その人には、その時間、何時何分何秒に、そこを絶対に歩いていなければならなかった理由なんかなかったはずです。
違う道でも、良かったはずです。
10秒後でも良かったはずです。
自分が、悪いんです、そんな事故に遭うのは。
そう言うと「お前なに言い出してんだあほかなんで被害者が悪いんだ」と思われるでしょう、わかってます。社会通念上、これは「言わない約束」になっているし、私も心からそう思っています。
痴漢や性犯罪の被害者に向かって「そんな夜道を独りで歩いているからだ」とか「そんな露出の多い服装でいるからだ」という文言を吐く人がいますけれど、それはめちゃくちゃです。
すぐにそんな意見が出てくると人は、クズ野郎だと思います。
犯罪は、犯人が全面的に悪いのであって、犯人と犯人を擁護したい人が言うような「そんなセクシーな格好でいるからだ」は、これは認めるわけにはいきません。99%の人は、性犯罪なんか起こさないわけですし、被害者は被害を受けようと思ってそんな行動をしているのではない。
例えば強盗があって金品を奪われたと。
被害者に向かって「そんな大金を持って歩いているからだ」とか「現金を犯人に見せびらかす形になっていたのが悪い」とか、そんなのおかしいでしょう。どう考えても犯人「だけ」が悪い。
「いじめられる方にも原因はある」もそうですね。
犯罪の場合、犯人が悪いです。
「善悪」を用いると、それでいい。
ただ、「善悪を超えて」2面性を論じてみると、「被害者」にはただただ迷惑なマイナスしかないんだけど、「加害者」には「欲が満たされた」というプラスがあることがわかる。
「そんなプラス許さぬ!!」と怒るのは「善悪」です。
もちろん(何度も確認しますけど)、それが正しい。
犯人のプラスなどは考えてあげる必要がない。
それが「善悪」ですし、社会的な規範というものです。
「善悪を超えて」2面性を考えると、1つの事象(この場合は例えば性犯罪)が起こると「最悪な被害」の裏側に、「まぁまぁ良かった満足」が張り付いている。
「必ず2面以上ある」は、時に残酷だってことです。
「悲しいかな、常に2面以上ある。」というのは、そういう意味です。
「2面以上ある」ことは我々人間程度の存在にはどうすることもできない真理であるし、だからこそ1面を「悪」に押し込めて、無いこと、やってはいけないことにしているんです。
歩道を歩いていて頭上からスパナが落ちてくる状況だと、2面性のうち1面は、限りなく小さく扱われます。
Aがスパナ側(落とした側)だとして。
Bが被害者側だとしたら、Bには過失はないし、悪くも無い。
Aが100悪くて、
Bが0。
そう考えるしそう処理するのが、社会では当然です。
では、雪山での遭難ならどうでしょう。
A雪山
B遭難者
なにが起こるかわからないA雪山が、100悪いんですかね…。
急に天候が変わったりする雪山が、100%悪なんですかねえ…。
最初から計画的に遭難したくてする人はいないけれど、やっぱりB「遭難者(もとは登山者)」にも、15%くらいの悪さはあるように、感じる時はありますよねえ。
では
南国の沖合でサメに襲われたダイバーは?
南極大陸に挑む冒険家の凍傷は?
小さいながら、「不幸」には2面性のうち、1面が必ず張り付いています。
それは「どんなことにでも2面性ある」のだから当たり前ですよね。
足を食いちぎられたのを「凶暴で獰猛なサメのせい」と言ってしまうのは簡単で、気持ちはわかるんですけれど、では「サメさえいなければ」で済む話なんでしょうか。
サメを駆除する液体を近海に散布するという話に、なるんでしょうか。
「あの人のせい」「環境のせい」「社会のせい」と言っているうちは、「2面以上ある」うちの、1面しか見ていないことになる。
「あの人のせい」の裏側には、常にぴったり、「自分のせい」が張り付いているんです。
それをどう考えるか。
自分のせいなんですよ、あの人がムカつくのは。
自分のせいなんですよ、環境が悪いのは。
言い方を変えると、「人のせい」にしてたって、何も変わらない。
変えたいと思うなら、とりあえず何のせいかは置いておいて、まず自分で変えればいい。
自分が変わるかどうかは場合によるけど、とりあえず自分で「変えよう」って思えばいい。
それだけじゃないですか、そもそもできることって。
「あの人のせい」っていうのは、「あの人よ、変われ!!」って丑三つ時に五寸釘打ったって叶わないのに願ってるのと同じですから。
ごちゃごちゃ言ってないで、自分で変えてやればいいんです。
「あの人のせい」で仕事が嫌だ、とかいつまでも言ってないで、思いっきり対峙して退治するか、そんな場所、やめればいいんです。
これを言うと「そんな簡単じゃない。じゃあ生活はどうするんだ」と言い返す人がいるんですが、そんなこと知るかぼけ。