寛容の精神。
ユリウス・カエサル、つまりあのジュリアス・シーザーが、ガリア地方(今のフランスとかドイツの手前あたり)を征服した時に、「異なる文化の人どもよ、我らの習慣を受け入れなさい。受け入れさえすれば、そっちの方がいいんだから、アンタら発展するよ?」という態度で臨み、本当に受け入れたガリアの民(野蛮人扱い)は、族長には自分の姓をすら与え、ローマの元老院のメンバーにも推挙しました。そして本当に発展し、カエサルの思想が、今のヨーロッパの基礎になっている。
なんで長ズボン履いているような野蛮な獣どもがこの崇高なる元老院に!!と、貴族や特権階級たちには猛烈な反発があり、このままではカエサルのせいでローマがダメになってしまう…!という危機感から、カエサルはむごたらしく暗殺されてしまいます。その日の空にはハレー彗星が長い尾を引いていたそうです。
それでもカエサルは、征服し・侵略する過程でも、相当に相手を許しながら進んだんです。もちろん、大軍で攻めて来られる方からしたら「そもそも来ない方が良いんですけど!?」なんですけど、普通は降伏したって殺されるというところを、「受け入れるなら全てを与える」扱いにするなんて、寛容も寛容、当時の非常識に相当する、大寛容だったわけですね。
普通は、そこまで寛容にはなれない。
私財を放出してまでそれをやってたんですから、もしあそこでカエサルが死んでいなかったらローマはどうなっていたのか…一方でカエサルは、他のローマ軍の実力者を差し置いて、17歳くらいでしかなかった甥のアウグストゥス(当時はオクタヴィアヌス)を、突然、巨大国家を担う後継者に指名したりしている。
天才は天才を見抜く、ということなんでしょうけれどこれだって、「寛容」経由でしか思いつかない大胆な施策のような気が、しますね。
この「クレメンティア(寛容)」は、多様性とセットで語られることも多いんですよね。
すでにその最新技術を駆使した快進撃で中欧世界を席巻していた古代ローマ帝国(その時はまだ帝政ではないし誰も古代とは思ってないけど)だけれども、カエサルは無理矢理に「受け入れろ殺すぞ」とはしなかったんです。
当然、「じゃあぜんぶ自由でいいですか」「それはダメに決まってるだろ」っていう強制性はあったんでしょうけれど、この精神はカエサル以降も受け継がれ、紀元後も初期にはあの、頑なでどうしようもないユダヤ教・キリスト教でさえ「1つの神しか崇めない、というその自由は認める。」と、その信教を許しています。
そして非寛容としか言いようのないユダヤ教・キリスト教徒の頑なな態度が政治に影響を与え始めるとさすがに禁教にするんですが、政治活動の結果、なんとキリスト教はのちに、国教にまでなっていく(分派とは戦い続けながら)。
キリスト教に対する態度によって、ローマ皇帝も「大帝」だの「賢帝」だのともてはやされ、弾圧したら「暴君」とか「愚帝」とかいう評価を下されてしまってます。
それが今も、皇帝の評するレッテルみたいにナッテル。
宗教に対する寛容は、こちらがそうであっても(多神教)あちらはそうではない(一神教)という場合、ぜんぜん成立しませんよね。
キリスト教が例だとほんとわかりやすい。
古代のローマはもうめちゃくちゃに多神教、というか日本に近いくらいの「ヤオヨロズ」状態だったんです。「夫婦喧嘩の神様」とか「腰痛の神様」とかがいたくらい。
これって、「豊か」の抽象化だと思うんです。
なんにでも神が宿る、の「なんにでも」がまずある環境、というか。
一滴の水をすら奪い合う、みたいな過酷な地理的制限・気候的過酷さがあると、「すがるべき神、祈るべき神は私一人に決めろ」という峻厳な宗教が生まれてくる土壌になりやすい気がします。
色んな人達がいて、その違いをあるがままに認める。
これって実は、異常にむずかしいことでもあるなぁ、と思います。
頭ではすぐにわかるんですよ。
・あの人と自分には違いがある。
・自分と他人、違いはあって当然。
・相手を認めることは、自分も認めてもらうこと。
・だから、まず。
・みんながみんな「そのままでいい」を受け入れること。
・そうすれば、傷つけ合わずに済むはずだ。
まったくの正論です。
正論だと思いますし、そこまではスラスラ言える。
だけどこの「違い」という言葉が曲者だったりもしますよね。
違い。
「差異」という語句があるけれど、本当に「横並びの違い」のことだけを、私たちは正確に見抜いて、それを多様性と呼びならわせているだろうか。
大きい単語の場合はすべてクレメンティアを発動させられるけど、もっと個人や個々の要素に入り組んだ時、それは発揮されるだろうか、と。
たとえば「黒人も白人もその他も、同じように扱われるべき」みたいなことは、もう言いだした0.2秒後くらいには「その通り」だと言えますよね。
だけど、「どこにいる人、何をしている人、どんな人」までミクロに限定されてくると、本当にまったく同列に扱うことが正しいのか?という問題が、すぐに出てくる。
つまりそこの「優劣」を感じる時、「認める」ではなく「修正させたい、させるべき」という気持ちが、湧いてきたりすると思うんです。
なんであんなのと自分が、同じ扱いをされないといけないんだ、と。
「差異」という言葉が「差」と「異」に分けられるとすると、「異」は多様性につながるわかりやすさですよね、つまり「different」だと。
だけど「差」を「gap」と訳するとすると、そこには「優劣がある」ように見える。
「差異」には縦軸と横軸の「difference」という指標が感じられてくる。
なんとなく我々に「人間というものは、向上していくものだ」という観念がこびりついている以上、怠惰で向上しようとすらしない人も「異」として、多様性としては認めないといけないのか!?という気持ち…湧いてきたりはしませんかね。
そう考えると「多様性」って、決してポジティブな場面だけで使われる言葉ではないような気すら、してきます。
もしかすると唾棄すべき社会的差別を許容するほどの「それはそれで置いておいてよい」という態度を示す場合があるかもしれない。
「ルールを守らない人だってそれはそれ」と言えるかどうか、という場合とか。
ちなみに「生物多様性(Biodiversity)」とその掲げる概念は、「今いる地球上の生きとし生けるものは、とにかく、今あるままでおらんといかんのだよ」ということですよね。
そしてそれがなぜ「おらんといかんのか」というと、「なんだかそもそもの理由がよくわからんから」なんですよね。なんでこんなに多様な、一から作るユニバースなら「ちょっと種類、かぶりすぎじゃないですか?」っていうくらいの亜種がいる理由が、わからない。
わからない以上、「現状が正しい」っていうことです。
多様性はその意味で、俯瞰できる立場から言えることではなくて、その同じ概念内にいるからこそ、畏怖の念を持って認めざるを得ないということの、表明とも言えるかもしれない。
個人的には、クレメンティア(寛容)に近づく方法は、これが近くて正しいんじゃないかしら、という簡易メソッドを、私は持っています。
「自分には許せないラインがあるッ!」とか、しょーもないカッコつけてないで「もっとクレメンティアを!」と自分に呼びかけるべきですし、「なんで自分は、これを許せないんだろう?」と、自分の視野と感情の反応の稚拙さを、観察することが大事、なのでしょうね。
「心が狭い」と言った途端に心は狭くなり、「寛容に行きましょう」と思った途端に、心の体積は大きくなるものだと思います。
わははは、ってなんでも笑えるようになりたいもんですねえ。