第41回「義盛、お前に罪はない」をご覧いただきありがとうございました。
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※配信期限 : 11/6(日) 午後8:44 まで
※要ログイン#鎌倉殿の13人#横田栄司 pic.twitter.com/Oly5l0FRlV— 2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 (@nhk_kamakura13) October 30, 2022
源頼朝が築いた都市、
鎌倉が、戦火に
包まれようとしている。
北条転覆を狙う最強の一族。
和田の乱が、始まる。
すごいタイトル
確かに和田義盛(わだよしもり・横田栄司)には罪はない。
ましてや「合戦」に至るような、重度の根拠があるはずがない。
「監督不行き届き」と言えばそうなのかも知れないけれど、齢67を数える古老に、そこまでの責があるとも思えない。
あまりにモメ方が激しすぎて「合戦」の名を冠していますが、「源平合戦」のような壮大な目的が双方にあるわけでもなく、歴史的な大転換点になるわけでもない、だけど事実上の首都が、戦火に燃えた。
罪が問われたのは泉親衡(いずみちかひら・生田斗真)の謀略に名を連ねた甥、息子達。
彼らが処罰され(息子らは赦されたが)、それで静かにうなだれていれば、殺し合いに発展することはなかったのかも知れません。その嫌疑だって、ほんとかどうかわからない。
『吾妻鏡』は北条氏の正当性を主張するために曲解していたりわざと書かなかったりしていることが多々認められている書物なので、どこまでほんとかなんてわからない。
和田義盛は誠心誠意、義を通すために正論と情感で訴えたんでしょうが、当時の、鎌倉幕府草創の歴史を知っているいわば生き証人たちにはまだ「上総介広常(かずさのすけひろつね・佐藤浩一)」「梶原景時(かじわらのかげとき・中村獅童)」、そしてまだ10年経っていない「畠山重忠(はたけやまのしげただ・中川大志)」ら、謀殺されてしまった勇将・知将たちの顔がありありと浮かぶはず。その顛末に濃厚に関与し、自分だって「殺す側(正確には『殺されない側』)」に上手く立ち回って一族を繁栄させてきた、黒歴史を背負っている。
あっ、このパターンは…と、和田義盛はどこかで腹をくくったのかも知れません。
今までは自分も「勝った側」に回ってきたから北条氏と対決はしなかったけど、ここで彼らを滅ぼさないと、一族の存続はないんだろうな、という武者ぶるい。
もはや長老と化していた古将・和田義盛は、言ってみれば「後進の、子孫たちのために立ち上がった」ということなんでしょう。未来への投資。自分1人が引退すれば良いというものではない。そして北条ヨシトキ(小栗旬)は、和田義盛が一族の若手を放置して遁世する(例えば出家する)ような人ではないことを、よく知っていた。
経緯を見ていると、やはり同族である三浦義村(みうらよしむら・山本耕史)の動向が雌雄を決するポイントになったようです。史実では北条ヨシトキの動向や感情がまったくわからないので、どうやって三浦義村とそこまで誼(よしみ)を通じていたのかは謎だけれど。
一大勢力である三浦氏において、傍流とは言え和田義盛は事実上の長老、となっていたはず。67歳の和田義盛と、本家の長者とは言えまだ40代後半の三浦義村。一族全体の主導権という意味では、三浦義村にとって、和田義盛が消えてくれることはそれなりに大きなメリットがあるということだったのかもしれませんね。
冒頭のナレーションでは「北条転覆」という言葉が出てきました。
和田義盛勢は、決して「将軍暗殺」や「源氏政権転覆」を狙っていたわけではなく「北条討伐」「ヨシトキ追放」「佞臣誅殺」といったところを目的にしていた。
逆に言えばそれくらいしか、御家人が戦いの理由にすることが存在しない。
鎌倉へ行ってみるとわかりますが、「え?ここで?」というくらいに街は狭いです。
「陣を張る」とかそういう規模ではない。
本来、殺し合うような場所ではない。
和田塚
和田合戦の名残が感じられる史跡。
今は江ノ島電鉄の駅名にもなっている「和田塚」。
和田合戦で散った人たちを顕彰するため、慰霊碑が建てられています。
ここは和田一族の土地でもない(和田義盛の和田は神奈川県三浦市初声町和田あたりのこと)のに、古戦場での大激闘の記憶を残そうと、駅名になったんですね。
駅名・地域の愛称にはなってますが地名としてはこの辺、「由比ヶ浜」ですから。
元々ははるか昔から、誰かの墳墓なんだけど「あそこは誰かの墓らしい」という伝承だけが残っていた場所に、「ここならまぁ良いでしょう、今さら誰かの屋敷も建てられまい」と、和田氏を祀る場所を作ったんですね。
これはもうこの辺りに生きる人々の心意気、というものです。
北条泰時(ほうじょうやすとき・坂口健太郎)は「西門を守れ」と命じられました。
御所の西門は、鶴岡八幡宮に接した面。
東側には、いったん和田義盛に与えられたのに北条ヨシトキが奪った、和田胤長(わだたねなが・細川岳)の屋敷があったそうです。彼が陸奥に流罪になった後、もしあのまま慣習通り同族の和田義盛に与えられていたら、この戦の時、戦況はまた違ったものになっていたでしょう。北条ヨシトキはそこまで読んでいたのか。
でも南門に殺到した和田軍は、さすが和田の一党という感じで強かった。
それにしても内面的に一枚岩ではないにせよ「どっち側につくか」をどうやって、坂東の御家人たちは決めたのか。
一族でもないとしたら、利害がどう一致するか、どう未来を読むか、いや、今までどれくらい世話になってたかどうか、というところもポイントに。
そして重要なのは「将軍がどっちに肩入れしてるか」「鎌倉殿はどこにいるか」というところですよね。将軍の味方でありさえすれば、後でどうとでも言い訳ができる。
そういう計算もそれぞれの家で、瞬時に行われたはずです。
その意味でも「三浦が和田と反目に!?」という情報は、かなりの衝撃だったでしょう。
現代の我々は「国」と言えば北海道から沖縄まで、全国っていう認識がすぐに出てきますけれど、当時の人らにとっての「国」とは領国のことです。武蔵とか相模とか、そういう区分の単位を「国」と呼んでいるし、感じている。
「日の本を統治するには」とか「これからの国家とは」みたいなグランドヴィジョンを持っている人なんか、ほんの数人しかいなかったんじゃないでしょうか。もしかするとその1人が、北条ヨシトキだったのかも知れない。
彼は「鎌倉幕府/武家による政治/京との対峙」など、のちには当たり前になり江戸幕府の下敷きとなる政権の形を、強引にでも維持する道を選んだ。
ここで和田義盛に負けていたら、執権職が和田氏に移り、三浦一族とともに鎌倉幕府150年の歴史を…となったかというと、そうはならなかったような気がします(ぜんぜんわからんけど)。たとえば元寇は、どうやって乗り切ったんだろう。
室町幕府が繰り上がって成立するとか。
後醍醐ではなく後鳥羽上皇(ごとばじょうこう・尾上松也)の時代に。戦国時代が150年くらい早く来ることになりますから(ならない)、我々が生きている今は1800年代の後半です。明治になったばかり、か…。いや、こんなこと考えてもしょうがないんですけれど、上の方で「歴史的な大転換点になるわけでもない」と書いたのは誤りだったかも知れないと思いました。グランドヴィジョンを持ってる方が生き残った。
持ってるからこそ生き残った。
それにしても和田合戦でもし和田氏が勝ってたら、伊豆に隠居している北条時政(ほうじょうときまさ・坂東彌十郎)も、無事では済まなかったでしょうね…。
義朝の髑髏ふたたび
源頼朝(みなもとのよりとも・大泉洋)の父・源義朝(みなもとのよしとも)のものだと持ち込まれた(たぶん嘘)、「源氏の原点」。
あの骸骨は「源氏の運命」を表すものであるはずなのに、いつの間にか「鎌倉そのものを表している」かような洗脳を源実朝(みなもとのさねとも・柿澤勇人)にかけ、北条氏そのものを守ることが鎌倉政権を守ることだと思い込ませようとしており、それはすでに、成功していたはずです。
「かような御教書(みぎょうしょ)が出回れば北条と和田の争いが、鎌倉殿と和田との争いに、形を変えることにはなりますまいか…」
という三善康信(みよしやすのぶ・小林隆)の進言もありましたが、おそらくこの時点でこんなギリギリの説得などすることはなく、貴族として生きてきた源実朝が「我が身を失っても和田を守る」とかいう心情になどなるはずもなく、「北条の言いなり」になるしかなかったことは想像に難くありません。なにせ母の北条政子(ほうじょうまさこ・小池栄子)も、その線で動いてるわけですから。
ドラマではここ最近、北条政子は北条ヨシトキをなだめすかし、戦を避けようと努力している様子が見えますが、この姉弟が共同戦線を張らない限り、実現するわけがない路線のはずです。骸骨に関しても「それはもういいわ」なんて言ってましたが、刷り込んだのは貴女です。
古代ローマ軍、現る!?
北条泰時が和田勢と対峙した時、民家の戸板や塀板を、全面と上部に掲げて雨霰と降る矢の中を進むというシーンが出てきました。
あれ、「テストゥド」と呼ばれるローマ軍の歩兵の常道戦術です。
あれはつまり、「古今東西の書物に触れて戦術も知悉していた賢人・北条泰時」っていう演出なんでしょう。ほんとに知ってたか・実践したかなんてのはどうでも良いのです。
最期はハリネズミに
和田義盛にとって最後の頼みの綱・源実朝が出てきて、説得にあたるという「なんとかなりそうな」シーンが出てきました。
そして「ここまでじゃ」と和田義盛はあきらめた。
良かれと思ってやった、お坊ちゃんの行動が、結局は人を追い詰める結果となった。
自分が、おびき出すための餌となることに気づけなかった。
和田義盛は羽林(うりん・源実朝)の眼前で斃れました。
壮絶な市街戦の様子を描きすぎずに戦を終息させる演出としては、最大限の効果を発揮する素晴らしさだったと思います。巴御前(ともえごぜん・秋元才加)、カッコよかった。
あっ、騙された!と思ったとしても源実朝には、北条ヨシトキをのちに罰する気概も胆力もない。「北条ヨシトキだって辛いんだ泣いちゃうぜ」という演出も一瞬ありましたが、実際は源実朝は完全に北条に洗脳されており、和田を殲滅しますと言われたら素直にうなづいたんだと思います。
「人を束ねていくのに最も大事なのは“力”」だと、北条ヨシトキは源実朝に語りました。
武家政治の根本は暴力。
いえ、現代に至るまで、権力の源泉は暴力です。
それにしても「徳治政治」の観点から言えば東の都である鎌倉でここまでの戦乱と殺戮があったとなると、トップである人間の「不徳」が理由になるはずなんです。
朝廷なら改元するレベル。
京の後鳥羽上皇に傾倒している源実朝に、北条ヨシトキは「武家の論理」だと諭したんですね。
朝比奈義秀伝説
「朝夷奈」とも表記されます。
朝比奈三郎義秀(あさひなさぶろうよしひで・栄信)は、巴御前に和田義盛の最期を告げて果ててしまいました。これは『吾妻鏡』ではなく『源平盛衰記』に書いてある顛末なのだそうです。実は巴御前が和田義盛の妻になったというのは『源平盛衰記』にしか書いていないことであり、あまりに勇猛な朝比奈義秀なので、「あの」巴御前との間の子供なんじゃないの、という、物語のための辻褄合わせになっているようです。
東京方面から高速道路で鎌倉に行くには、「朝比奈IC」で降りることになります。
そうでなければ次の「逗子IC」まで行き、逗葉新道を通って海沿いに行くしかありません。この2通りしかない。
この、高速道路の西側にある山。
ここは「朝夷奈切通」と呼ばれ、鎌倉を守る要害の、重要な通路になってたんですね。
この「切り通し」を、朝比奈義秀が一夜にして切り開いたという伝説があるそうです。
それくらい、父に劣らず剛の者だと認識されてたんですね。
彼の母は不祥。
上記の通り、巴御前が生母ではないかという説もあります。
木曽義仲とともに戦った勇猛な才媛である彼女は、侍所別当たる和田義盛に保護され、朝比奈三郎義秀が生まれたと。生年からするとそれは眉唾物だそうですが、ああ、あの和田義盛と巴御前の子…!だからか…!と納得できるほどに膂力に優れ、豪勇が内外に轟いてたんでしょう。実際に和田合戦での活躍は凄まじかったようです。
彼は戦い続け、由比ヶ浜から船で脱出しました。
だけどその後のことはまったくわからないそうです。
どうやって逃げたのか。
いつまで逃げてたのか。
実は「逃げた先で伝説を作ってた伝説」があります。
なんと宮城県黒川郡大和町。
ここです。
こりゃまた逃げたね。仙台の少し北。
「船形山(御所山)」を盛る土のために「松島湾(日本三景)」を掘り、掘った土を引きずって運んだらその道が「吉田川(鳴瀬川水系)」になり、その足跡が「品井沼(江戸期の干拓事業で消滅)」と化し、運んでいた土がこぼれ「七ツ森の山々(安山岩)」になったという。
もはや縮尺さえ無視の神々しい活躍。
土木事業レベルの話じゃなかった。
現在は、ゆるキャラ「アサヒナサブロー」として復活。
大和町、現地では「鎌倉殿の13人」アピールはされてるんでしょうか。
もはや着ぐるみは武将ですらない風体ですけれど。
大和観光情報
アサヒナサブロー プロフィール
https://www.town.taiwa.miyagi.jp/site/kanko/1284.html
彼が乱戦を逃げ切り、安房に渡ったのち、神奈川県秦野で隠棲している…という設定が盛り込まれた「実朝の首(葉室麟)」 という小説があります。
彼の武勇が垣間見れる作品です。
和田合戦のあと
和田合戦は血みどろの御家人同士の争いに、一応の終止符を打つ形で終わりました。
厭戦気分も蔓延し、北条氏の事実上の天下が確定した。
畠山重忠の時もそうでしたが、どうも「ブチ切れるポイントがおかしい」と感じるところがあるんですよね。
もうちょっと我慢して、対策を他方面から施して、殺し合いにならないように持っていくことは可能だったんじゃないか…と。
鎌倉武士(生まれからすると平安武士)たちの感覚が我々に理解できるわけはないんですが、「疑われた時点でする覚悟」のヴォルテージがすごいというか、「戦う」ということ自体への執着が極まってる状態で生きてる、という感じがする。
武士の棟梁であるはずの源氏の君は、「お飾りの貴族」となった。
新しい世の中を、武士の世を作ると志した父・源頼朝のような活動もできそうにない。
悲劇の将軍は、束の間の夢を見る。
今回の『鎌倉殿の13人紀行』は、ここでした。
和田塚
善栄寺