第一次世界大戦真っ只中の1917年のある朝、若きイギリス人兵士のスコフィールドとブレイクにひとつの重要な任務が命じられる。それは一触即発の最前線にいる1600人の味方に、明朝までに作戦中止の命令を届けること。この伝令が間に合わなければ味方兵士全員が命を落とし、イギリスは戦いに敗北することになる――。刻々とタイムリミットが迫る中、2人の危険かつ困難なミッションが始まる・・・。
「全編ワンカット」で話題になってましたね。
実際には完全にワンカットではないっぽいけど、これ、どうやって撮影したんだろう?と尋ねたら「めちゃくちゃ苦労して撮影しました…!」という答えが毎回ちゃんと返ってきそうな、すごい映像の連続でした。
第一次世界大戦が始まったのは1914年。
この時点では、第二次世界大戦が1939年ごろから始まることを誰も知らないので、「第一次」とは誰も呼んでない(「Great War」と呼ばれていた)し、のちに呼ばれることになることも、誰も知りません。
1918年まで第一次世界大戦は続き、1919年6月のヴェルサイユ条約調印で終わります。だけどこの条約による、苛烈な連合国の、ドイツに対する仕打ちがドイツ国民の怨みとやけくそを激しく醸成し、ナチス、ヒトラーの登場を促し、「第二次」につながっていくのですからまったくもって皮肉です。
この映画は「西部戦線」を舞台にしているそうです。
ベルギーとフランス、ルクセンブルクとか、あのあたりの戦線なんですね。
※当時の「西部戦線の地図」。赤線はドイツ軍が体勢立て直しと戦術改善のために築いた防御要塞群「ヒンデンブルク線」。
第一次世界大戦と言えば塹壕(ざんごう)。塹壕と言えば第一次世界大戦。
両軍ともが掘りまくり張りめぐらしまくった塹壕、最初は「こんなもので戦いになるのかね…」的な存在だったそうですがこれがやたら効果を発揮し、お互いに膠着状態を呼びます。何せ「守る方が強い」というのが塹壕の特長だそうで、めったやたらに攻められないということになってしまった。その代わり、その千日手状態を打破すべく、爆撃とか、毒ガスとか、新しい兵器の投入を招いた、ということのようです。
第一次世界大戦は当時、「戦争を終わらせるための戦争」とも呼ばれていたそうです。なにせ欧州はずーっと戦争してますからね。いつまでやってんねん的な、領土の奪い合いを延々やってる。強欲な貴族・領主のせいで、ずーっと民は、殺し合いをやらされ、貧困に喘いでいる。戦争に行って兵隊にならないと食えない人らも大勢いた。貴族・領主・教皇たちは、平民やキリスト教徒以外の命など、ゴミ以下にしか考えてません。
地理的に、ど真ん中のドイツ帝国が対ロシア・対バルカン半島・対フランス、みたいな多方面作戦を展開するくらいにやたらやる気で、それに乗じてなんらかの利を得ようと常に狙うイギリス、それぞれのアフリカやアジアでの植民地の権益もからんで、止められなくなっちゃってるんですね。
時にイギリスは「本土さえ無事ならどこでどれだけ戦争したって構わない」的な姿勢をずっと取ってる。今もそんな感じがします。
映画のタイトル「1917」は、まだ戦争自体は終わったりしない時点での物語。
物語と言っても、主人公が寝てて目を覚まし、同じように木に持たれて目を閉じる、たった1日くらいの間を描いてあります。「1917」というタイトルには、「単なる、ほんの一部を切り取った」ということを示したい、強い意図を感じます。なので、申し訳ないけど「命をかけた伝令」っていう無粋なサブ放題は、必要なのかしら…。
あ、命を賭した伝令のお話なのね…とわかるのでとてもありがたいんですけど、「伝令の話です!」っていう感想なら、要らないんですよね。間違ってないんだけど、そーゆーことじゃ…ないんだよ…!と、制作者には思われてしまいそうな気がする。
たとえ映画でも、過去の戦争を見ると、「なんで戦争になるんだろ?」と不思議な気持ちになってきます。
戦争は殺し合いで、お互いに恨みのまったくない兵隊たちがなぜか武器で狙い合い、憎み合う関係になるという、想像だけだと動機が謎に包まれてしまう感じがします。戦争がなければ、現代のように、都会のカフェで隣り合い、同じ注文をして落ちたナフキンを拾ってあげる、みたいな関係になってるはずの人たちが家族から引き離され、「殺さないと殺される」という状況に追い込まれ、怪我や病気や飢餓でも死んでいく。なにそれ。
第一次世界大戦も、事前にはそれなりに戦争にならないような努力はあったようなんですが、「あっちが用意をしてる」「そうなの?じゃあ準備しないと」「え、そこまで軍隊がきてる?」「ヤバい、仕返しの用意を!」とか言ってるうちに、どんどん連鎖的に、戦いに進んでいってしまった。
「戦争なんかしなければいいのに」
「話し合いが足りないんじゃないの」
「平和がいちばん」
とわれわれは簡単に、すぐに思ってしまいますけれど、今だってアゼルバイジャンとアルメニアで「ナゴルノ・カラバフ戦争」やってますからね。
ここはずっとモメてる場所なんですけど、アルメニアの飛び地だった「ナゴルノ・カラバフ」。
戦争によるアゼルバイジャンの勝利によって「ナゴルノ・カラバフ自治州」だけでなく、アルメニアは周辺の事実上の支配権も喪失しました。ロシアが介入し、戦争自体は止まった(大量虐殺もあり得た)けれど、アルメニアの飛び地に住んでた人らは「いくら憎んでも憎み足りないアゼルバイジャン」と思ってますし、アルメニア国内で虐待を受けてしまうアゼルバイジャン人からすると「アルメニア人許すまじ」が、絶対に消えない濃度で残っています。
世界は、とうの昔に「1回の表」が始まってしまっていて、今は何回の表なのか裏なのかわからないけど、はい、じゃあゲームセット!とは行くはずがないんです。
いやいや、お前が俺の親を殺したんだろう?
いやいや、お前の親が俺の親を殺したのが最初だ。
いやいや、俺の親の親はお前の親の親の親に虐げられたんだ。
いやいや、死んでも許さない
いやいや、お前が悪い
いやいや、
いやいや、
いやいや、
いやいや、
これを止める方法なんか、どこにもないでしょう。
まったく利害関係のない、だけど絶対的にめちゃくちゃに強い人が「わかった。とにかくやめろ。やめやがれ。やめないとしょーちしねーぜ…」と、和平に導いてくれればいいんです。喧嘩の仲裁って、そういうことですからね。弱い人が言っても止まらない。
「よし、あんたの言うことだったら聞こう。互いに恨みは消えねえが、未来のために子供たちのために、あんたの顔を立てて、この怒りは収めることにしよう…」
って言うことになるんですけど、現実は、仲裁に入る超強国であるアメリカやロシアが、後ろで隠れて両陣営に武器売ってたりするんだから、終わるわけがない。
第一次世界大戦も、アメリカの参戦でバランスが傾いて、終戦に向かいました。
そうなると、アメリカの発言権が増しますよね。
「今後の平和のために、うちの兵器を買え」という申し出が、断れなくなる。
戦争は、儲かるんですから。
ノーベル平和賞なんかで、止められるわけがないんです。
一人の伝令が、友を失いつつ、ただ茫然と明日を知れぬ戦地で、汚れた体を横たえるその同じ時刻、首都では政治家たちが、賄賂と利権と資産がどれくらい増えるのかを、スコッチを飲みながら計算していたのでしょうね。