21Lessonを読んでまして、その第1章が「幻滅」。
なんで21世紀を生き抜く思考…!みたいな本のはずなのに、いきなり「幻滅」から始まるんじゃハラリ!おいユヴァル!と思いますよね。
まず我々は、今、生きている社会を「自由主義が最善」という前提で生きています。
日本にいると「民主主義が当たり前」だということで生きてますよね。
自由なのも当たり前。競争社会。だけど安全な社会。
ちょっと日本、このままだとしんどいので、イスラム法理を前提としてシャリーアを取り入れた国家にします!とかいうのはいやいやいや!やめて!無理!ってなりますよね。常識として、「自由で民主主義なのがベスト」と思ってる。生まれた時からそうだった人らは。
共産主義もダメ、社会主義もダメ、それを経て、今選んでるのが自由主義、だと。
確かに太平洋戦争が終わって、アメリカが強く、ヨーロッパは一つになって、日本は金持ちに、中国もじわじわ…ってやってた時代とは、明らかに違う段階に進んでることが、わかってきています。
時間が経つにつれてみんなで分けられるパイはデカくなっていく…という共通認識のもと、「金持ち喧嘩せず」をみんなで目指す…的な発想で、ルールも作られてきた。
その自由主義だって、最初は「ヨーロッパ中産階級の男性の自由と特権を重視し、労働者階級や女性、少数派、非西洋人の苦境は目に入らなかった(p.26)」んですよね。
なんとなく「自由の始まり」というイメージがあるフランス革命だって、王政は倒したけど、そのあとの恐怖政治以降は、ブルボン朝の圧政どころはないくらいの死者を出した。
フラフラしながら、遠回りしながら、血みどろの小径をすり抜けながら、自由主義はだんだん育ち、今みたいな時代になってきたんですよね。
だけど、妥協しつつも最もいい感じな、マシなものを選んでると言えるであろう自由主義が、バイオテクノロジーとITによる革命で、変わってくるかも…と。いや、おそらく変わっていく。
よく考えたら共産主義も自由主義も、ヨーロッパ諸国が戦争の果てにたどり着いた帝国主義の反省と熟知の末に出来上がってきたものだし、世の中が変わる可能性が、必ずしもその延長線上にある必要はないだろ、とは思えてしまいますよね。ましてや、戻っていくなんて選択はあり得ないし。
自由主義の物語と自由市場資本主義の論理は、人々に壮大な期待を抱くように促す。二〇世紀後半には、ヒューストンであろうと、上海であろうと、イスタンブールであろうと、サンパウロであろうと、どの世代も前の世代よりも良い教育を受け、優れた医療の恩恵に浴し、多くの収入を得た。ところが今後の年月には、技術的破壊と生態系の崩壊の組み合わせを考えると、若い世代は良くても現状維持が精一杯かもしれない。(p.36)
確かに「幻滅」は、ある。
図らずも新型コロナウィルスの蔓延は、自由主義的な境界でもある(それは帝国主義の名残とも言えるけど)国境を超え、人種を超え、グローバル社会の裏面を見せてくれたような気がします。
中国が鎖国をしており、日本も貿易をしておらず、地球儀の作成は禁じられ、軌道を回る衛星などはない…というような時代、または政治体系しかない地球だったら、武漢のウィルスはイタリア人を宿主にはしなかっただろうし、スペイン帰りの京都の学生が隔離されることもなかったかも知れない。
そんな想像や仮定には、なんの意味もないのですけれど、グローバルで自由な「だけ」の社会に我々は幻滅しつつ、ただ破滅していくのを黙って見ているのでしょうか。
テクノロジーやITによる革命は、人類を、常に未曾有の危機に追い込んでしまうだけなんでしょうか。
おそらく、現状と、過去を正しく、冷静に見つめれば、その2つを結んだ延長線に、選ぶべきだと思える未来があるはず、なんですよね。
この本、ここから何が書いてあるんだろう。
第2章は、「雇用」です。