21 Lessons、第3章は「自由」。
自由は、「不自由」があるからこそ成立している。
自由のないことを「不自由」と言うけれど、それは自由を知っているからこそ言えることで、あとで思い出すと「あれは不自由だったのだ」と言えるだけで、そう言い切るには他に「これが自由ってもんだよ」という状態を、知っていなければならなくなる。
おそらく現在から過去を考えると、「今に比べてあんな不自由な」と言えることが多いことから、不自由という言い方が生まれたのではないでしょうか。
紙飛行機って、おそらく飛行機が完成する前からある遊びでしょう。
飛行機ができるまでは、違う呼び方で呼んでたはずです。
だけど空を飛ぶ飛行機が出来たら、紙を折って投げると宙を滑るあの遊びを「まるで紙飛行機だ」と言いたくなったんでしょう。
飛行機→紙飛行機の順番ではないってことですね。
つまり自由も自由→不自由の順番ではなくて、後からそう呼んだだけ。
民主主義は、個人個人が「自由意志」を持っているという前提に成り立っている。
社会全体として、不利益がけっきょくは一番小さそうだ、ということで民主主義を採用している国家が多いけれど、それが「合理的かどうか」で言うと、決してそうは言えないのかもしれません。
本当に「合理的」を追求するならば、全員に同じ投票券を付与するのは間違っているのかもしれない、と言えますよね。合理的に社会を良い方に導こうとするのに、なんで「誰が政治家になったって同じだよ」以上の感情を持たない人に、「世の中はよくできるはず」と熱く考える人と同じ投票権があらねばならないのか。
字の読めない小間使いも、アインシュタインやドーキンスと同様、自由意志を持っており、したがって、選挙の日には、投票によって表明される彼女の感情も、他の誰の感情にも劣らぬ重みを持つ。(p.71)
「感情」を、人間だけが固有にもつ、豊かな自由意志の現れ、だと思っているかどうかは重要ですね。
感情は、あらゆる哺乳動物と鳥類が生存と繁殖の確率を素早く計算するのに使う、生化学的なメカニズムだ。感情は直感や霊感に基いてはいない。計算に基づいているのだ。(p.73)
つまり、たとえば低劣なスピリチュアル大好き人間たちが「本能」と呼びたがるようなものは、すべて生化学的なアルゴリズムに従って自動的に動いているもので、それは決して「自由意志」の結果だと信じるようなものではない、ということになります。
その正しさを「悲しい」と感じるのか「まぁそうか。そらそうだわな」と思うのかはそれこそ自由だし、だからと言って正しさは変わらないので、そういう意味では「自由意志」にまかせて例えば選挙をしたとしても、大まかな社会変革の方向性は大きく変わることはないのかもしれません。端的に言えば「あまりにバカな意見は無視してもかまわない」ということに…。
誰を救い、誰を殺すのか
自由に選んで、自由に意思を発揮していると思い込んでいる我々は、毎度「トロッコ問題」に似た問題にぶつかると、うーんと考えたふりをして次のことへ逃げます。
そんな状況は滅多にくるものではないし、誰がどちらをどう選んだとしても、責めるような立場にはならずに済むだろう…くらいの楽観を抱いています。
これが、人間以外のアルゴリズムに任せるような時代、とりわけ自動運転が活発になった時代だと想定すると、じゃあ「ジジイの団体か1人の子供か、どちらかを轢かないと自分が死ぬ」という切迫した状況になったとき、自動運転車は何を基準に、どう判断するのでしょう。
機械に任せない、AIがいくら発達しても重要な部分は人間が担うべき、と高々とおっしゃる方々は、「多ジジイ」「単体子ども」「自分様」をその場で選ばないといけません。しかも瞬時に。
機械に「多ジジイ」とプログラミングされているタイプのAIカーを選んで買うのか。
それともそういう究極の場面では、とりあえず「自爆」するタイプを選ぶのか。
ここは「自由」ですよね。自由に選べる。
合理的に考えれば訴訟やその他、いろいろな工面の方面の面倒さとか、自爆が一番楽かも知れませんが、そんなことを、新車を買うときに決められるのか?それとも「ランダム」っていう選択肢もあり得るのか?被害者の補償をテスラがしてくれるなら「ジジイでも子供でも」どっちでもいい??
今日、日本に限らず、政治は「どれを選択すればいいのか」の連続で船を漕いでいます。
ネトウヨが言うように近隣国を「焼き払え!」で済むならそんな楽なことはないですよね。
向こうに大勢が死んで、こちらも死者がたくさん出て、自分も死ぬんだけどそんな想像力はネトウヨ程度には無いから、威勢がいい言葉を並べるのが気持ちいいんでしょうけど、そうはいかない。
ネトウヨ程度の知能じゃないから政治家は政治家になってくれている、と思いたいけれど、国難と言われる2020年のコロナ禍、こういう時にも「感情完全抜きのアルゴリズムによって判断します」という政体ならば、政治家の資質に関係なく、データが揃い、それをグラフにする時にも人間の恣意的な作業は入り込まないので「感染者数がこれだけ、増加率がこれだけ、死者がこれだけ、なのでこうします」と、はっきり答えが出るでしょう。
それを「合理的」と判断できるから、しわ寄せで苦しむ人もいる、不平を持つ人もいる、不満で怒る人もいる、だけど「もっとも合理的」だと言えるから従うことにする、となりそうです。
「機械は冷たい」とは言いつつも、病院へ行ったら検査結果はみんな数字とにらめっこしてるじゃないですか。肝臓の値がどうたら血圧がどうたらと。
あれって「合理的に、任せている」わけですよね。
もちろん故障も失敗も再検査もあるけれど、人であるお医者様の感覚だけではないところに、安心感を持っている。
政治ももしかしたら、そういう風にするのが良いのかも知れません。
それはAIの自由にさせる、という意味ではなくて、その方が、アルゴリズムに決定してもらったほうが、納得できる人は多いよ、ということですね。それに反発する人たちへの対処も、すでにしてアルゴリズムが決定しているから。政治家個人の歴史観や資質や根性の無さや実家の太さとは関係なく、「砂糖を入れると甘くなるので2g追加」くらいの、計算で進む。不慮の何かが起こった時は、それに対する、被害が最小になる作戦を自動的に遂行することになる。社会保障や安全保障も、実はそれですべてうまくいく気すらしてきます。
そうなると、人間様の「自由」はどうなるの?という感じがしてきますよね。
ぜんぶ機械が決めるなんて「不自由」だ、と。
もう、不完全で不便利で不快な「自由」を知ってしまっている我々は、完全で便利で快適なはずの「不自由」を、受け入れがたく思ってしまっているのではないでしょうか。
じょじょに変化していく過程で生きている私たちは、いずれ「これを昔は不自由と呼んでいたのだ」と思う瞬間に、立ち会えるかも知れません。
例えば監視カメラって、「不自由」の象徴でしたよね。
なんで人に見張られないといけないのか、犯罪者じゃあるまいし…と。
だけど犯人発見にものすごい効果を発揮することはわかってきて、それが治安維持そのものにも貢献することがわかってきた。「メカお天道様」としての機能の高さが浸透してきた結果、コストも下がり、ますます多くなってきた。
「不自由」だったものが、恩恵をはさんで、「自由」を獲得するものに変化していってる。
もちろん、まだ不自由であることの象徴である部分は残っていますが、じょじょに、真反対の観念を体現し始めていってますよね。
その画像の解析なのの技術はまだまだこれから発展するでしょうし、「自由」と「不自由」がひっくり返るなんてことは、いろんな分野で、これから起こり得ることだと思います。
次の第3章は、「平等」です。