FATA REGUNT ORBEM!
CERTA STANT OMNIA LEGE.
「不確かなことは、運命の支配する領域、
確かなことは、法という人間の技の管轄。」
これ、そう思います。
我々は不確かなことを「不確かだ!」と叫んで、
とにかく不確かなことを不確かだと確認ばかりして、「不安だと思いたくて、不安になっている」。
自分から不安という壺に、頭だけを突っ込んで「一寸先は闇だ」と叫んでいる。
その反響に、さらに自らおびえている。
自分から、「見えない方向はどっちだーっ!」と叫んで、探して、暗くて見えない方をわざわざ向いて、「ぐああーッ!暗くて見えないーッ!不安だハーッ!」と、神経をすり減らしている。
自分で物事を区別できることに、人間は不安を持ちません。
スーパーで「今日はキャベツを買おう」と決断していて、たまたま値段が高くて「ぐぬぬ」と思った。
家族には「今日はキャベツと○○の▲▲煮よ」と宣言はしていたけれど、「レタスにしよう」とあなたはその場で判断する。
帰って「あれ?キャベツって言ってなかったっけ?」と言われても「うん、レタスにした」と鮮やかに説明や突破ができる。
自分で決められることで、人は不安になりません。
自分で決められるということは、自分で、変化の方向も決められるということですから、「なんとかなる」と思えるんですね。
その逆に、自分で決められないことは、不安を消すことができません。
毎年の台風。
その他の災害。「いつ来るかわからない」と言われる大地震も、明日来るか、2年後か、10年後にも来ないかもしれない。でも、3秒後に来ないとは限らない。
備えることは大切ですが、「ああ、どうしよう、どうしよう」とオロオロしていても、地震は待ってくれません。
急がせることも、遅らせることもできないことに、「どうしよう!どうしよう!」と言い続けても、事態は好転しません。
好転するかどうかは、自分以外の要素で決まるのです。
「キャベツ」と「地震」なら、わかりやすいので区別をつけやすいでしょう。
「バカにすなッ」と、あなたは怒るかもしれない。
でも、そう考えると「自分ではどうしようもないんだ(地震)」と、「自分で決めたと行動で、いかようにもできるんだ(キャベツ)」を、しっかり分けることができるはずです。
それを、古代ローマの実質的三代目皇帝、ティベリウスは看破していた。
後代まで言葉として残っているということは周りの人が聞いていた(明言した)ということでしょうし、明言してなかったにしてもいかにも言いそうな感じだったのだろうし、「残すべし」と当時の人が思うほどの、真理をついている内容だった、ということでもあるでしょう。
もちろん、自分で引き寄せ、未来に備えることは必要だと思います。
でも、その区別、本当にちゃんとついてるんでしょうか。
ただただ、壺に首を突っ込んだ状態になっていないでしょうか。
その「状態チェック」は、しょっちゅう必要だと思います。
クローゼットに、着もしない服が詰まっているのは、そのせいだからです。
「買うべき!」「必要!」「これがないと!」「持ってると輝く!」と、常に我々は、「優しい脅迫」を受けて暮らしてるんです。
この回にも書きましたが、
「必要なこと」と、「欲しい!」は違うんです。
これ、じーっと考え続けていると、ああ、そうか、あれ要らないわ…と、じんわり候補が滲み上がってきて面白いです。
うーんひょっとして、人間関係にも言えるかも。
今読んでいる「ローマ人の物語」は文庫本18巻。
ティベリウスが死に、あの可愛かったカリグラが(実質的)四代目に。
この治世、意外と短いんですね。
地味ながら、賢帝としてローマの基盤を作ったティベリウス。
ドラマの「ROME」には出てこないですけど、どうもポンペイウス(ケネス・クラナム)の風貌がイメージとして混同・脳内再現されてしまい、困っています。
ああ、Huluで見てるんですが、第一部の最終回で、カエサルが暗殺されてしまいました。
あまりにも有名な場面なので、坂本龍馬暗殺のシーンと印象がかぶります。
第二部は、オクタヴィアヌスが、アウグストゥスとなっていくんでしょうか。
今日から、突入します(`д´)ゝ