今や神は国家に仕える
現在の日本人からすると、「宗教」という言葉の受け止め方には2通りあって、まずは「宇宙」や「歴史」や「政治」と同じく学ぶべき系統があって考え方があって、学問であり実践であると理解できる。つまりジャンル名として。
そしてもう一つは「狂信的な依存者が、絶大なる力を誇示する教祖を信奉し時に反社会的な行動すら取りかねない集団・またはその教義」のこととして理解されている。
凶悪な犯罪者がその関わりを、伝統的ではなく新宗教と言われる団体と多少でも結んでいると(それが愛憎どちらの感情だとしても)、その犯罪の動機そのものまたは遠因として、「宗教」は腫れ物に触るがごとく取り沙汰される。
ニュースになるような宗教団体にはとかく、金銭的に汚い噂や被害者とのトラブルが必ず付き纏い、報道するメディアにおいてはその団体からの弩級のクレームと訴訟が脳裏にちらつき、威勢の良さがなりを潜めて及び腰になったりする。
それを目にしながらも依然として日本人は「自分は宗教とは無関係」という顔をして暮らしている。
「自分は無宗教だ」とわかったような顔で語る厚顔無恥が横行している。
無宗教を気取る人たちに時間を置いて、忘れた頃に「お墓はどちらに?」などと聞くと、意外と先祖代々の菩提を弔うお寺への縁と地元への執着を語り出したりする。その矛盾については恬として恥じるところがない。「めんどくさい」という理由で行かない人は多くいるが、まごうかたなき宗教行為である「初詣」に関して、毎正月に怒りを表明している人は見たことがない。
近代以前の宗教の役割とは、精神的な安寧や世界の穏便を祈り願うだけでなく、暦を管理し降水を読み取り害虫を防ぐ手立てまで講じるものであった。芸術や医療にも深く関わる万能的なものであり、それらを神の恩恵として取り扱う聖職者は、担当の職域の広いジェネラリストとして尊崇を集めた。
たとえばイエス・キリストは、多くの時間を費やして病人を癒し、目の不自由な人が見えるようにし、口の利けない人が話せるようにし、精神の錯乱した人に正気を取り戻させた。古代のエジプトに暮らしていようと、中世のヨーロッパに暮らしていようと、病気になった人はおそらく医師ではなく呪術医の所に行き、病院ではなく名高い神殿に巡礼の旅をしたことだろう。(p.174)
科学が発達して、これら宗教者の役割はほぼ、終わった。
最初は頑なに拒否していたはずの多くの人たちも、科学技術の発達による治癒力の高さや富の蓄積のスピードをまざまざと見せつけられることによって、信仰がこの世のすべてを凌駕するという考えを、捨てざるを得なくなったのだ。
それでも、宗教はなくならずにいる。
宗教が本来持っている、「物事を解釈する」という機能で、生き残っているのである。
経済発展や技術革新からは、どんな宗教も逃げることはできない。
すべての都市から離れて峻険な山の頂上で暮らそうとも、現代文明から完全に隔絶して生きることはできない。
そんな中、それら新しい価値観を宗教的に理解し信者に再配布するには、現状を照らし合わせて、単純で難解な経典からそれに適合する箇所を読み出し、新たな解釈を加えるしかない。原則として経典は書き換えられないので、その読み方や解釈の柔軟性で無限に対処する。
そしてその「解釈でどうとでもなる」という事実が、「同じ宗教を信じながらも統一した見解を持つことができない」という最大のジレンマを生むのである。
宗教は、何を分つのか。
人間は集団に所属する。
集団は、協力し合うことで生活が成り立っている。
その集団が持つアイデンティティを決定づけるものは、科学的な事実でも経済的な優位性に基づく階級でもない。
必要なのは虚構の物語(神話などにつながる)であり、それこそが「私たちは誰なのか」に対する、答えに一番近い「何か」をくれる入り口になるのである。
その証拠に、地球に住むどの人たちをただランダムに並べても、「この人がどんな宗教に帰依しているか」などはわからない。
住んでいる場所でもわからない。
同じような地域に住み、とても似ている容姿をし近い装束を身につけていても、お互いに憎み合い、爆弾を投げ合っている人たちは大勢いる。
「ノー・ボーダー」と言えば国境を無くし、地球に住む人類が等しく仲良く生きていく象徴のように使われる言葉だが、宗教こそがボーダーを超え、国境などは軽々と無視して浸透し、本来の意味の「グローバル」を不可能にしている。
地球規模で考えれば抑えるべきことが抑えられず、止めるべきことが止められず、増やさない方が良いこを増やし、死ぬべきでない人らが死んでいく。国家を超越して協力しなければならないはずの問題意識より、宗教が作る壁の方が遥かに高い。
同じ文明が等しく覆うこの星で、地球規模の問題を解決するにはもう、グローバルな協力が絶対に不可欠だ。しかしそれこそが、不可能なのである。
それぞれの宗教が持っているアイデンティティに従うことこそが、それを信じる人たちの生きる指針となっている以上、それに逆らって、それを潰してまで地球全体に奉仕するということには至らないからだ。
宗教性が敵になる
地域性が仇となる。
逆に言えばこれらを無視して「グローバルな解決」や「地球環境を守ろう」などと曰う輩は、問題に目を瞑っていい子ちゃんぶってるだけの偽善者だ、と言わざるを得ない。
あなたは「今の生活を選ぶか?宗教を選ぶか?」と言われたら、即座に「とうぜん、今の近代的な生活を選びます!」と言うだろう。
しかしそれこそが「宗教」なのかも知れないのだ。
次は第9章、「移民」。