ある、Youtubeを見ている。
正確に言うと「観察」している。
チャンネル登録はしていない(それはしてあげた方が良い)。
その方は実は古い知り合いで、直接、高価な衣類をいただいたこともある。
いわゆる「大先輩」である。
その方が、自分のしゃべりを録画して、Youtubeに高頻度でアップロードされている。
今はお付き合いもないし、連絡をするつもりもない。
こちらから何かを申し上げるような立場でもないしそもそもそんな距離感ではないので、ここに自分への反省と教訓、注意点と戒めとして、いくばくか書き残しておくにとどめる。
それは「しゃべりの古臭さ」についてだ。
かんたんに並べると、この3要素だ。
1、言葉の置き方
2、間(ま)の誤魔化し方
3、ほろ酔いの自分を“良い感じ”だと勘違いしてる
「1、言葉の置き方」
というのは「部分的に強調して言う」ことを指す。
「2、間(ま)の誤魔化し方」
というのは、言葉と言葉の間、えー、とかあー、とかいう、自分で自分に対して打つ合いの手のようなもののことを指す。
「3、ほろ酔いの自分を“良い感じ”だと勘違いしてる」
とは読んで字の如く、ほろ酔い機嫌でふわ〜っとした気分で気持ち良くなっていく状態で、好きなことをしゃべっている行為を「最上級」に置いてしまっていることを指す。
しゃべりは、いつしか古臭くなっていく。
それは時代によって当然のことである。
50代の人間が、20代と同じしゃべり方をしていたら不気味だ。
その方が気色が悪い。
しかし、わざわざ自分からダメな方に曲折していく必要はない。
若々しさはバカっぽさでもあり、老練さは熟達でもある、そう信じたい。
難しいのは、そのバランスだ。
上に挙げた3つは、しゃべる上での「ダメなところ」だ。
歳をとったからとて、そうなってはいけない悪手だ。
おそらく、誰にでも当てはまる。
今20代の、闊達にしゃべっている威勢のいい人たちも、必ずこれにぶち当たる。
この予言は必ず当たる。
実際にはこれは「予言」ではなく「公理」だからだ。
いわゆる「ダメ出し」をする立場にも関係性にもない「大先輩」のしゃべりをずーっと見て、かなりの時間を費やし、上記の3点を「ダメなところ」として抽出した。
これをやっている限り、下の世代はおろか同世代、もはや上の世代にすら、あの方が勝てる見込みはない。
その方は「あの若き夢よ再び」と、「しゃべりで勝つ」を標榜して続けてらっしゃるのだから、上記の3点にはご自身で気づかなければならない。周囲の、気が置けない人たちは率直に、早々にそれを伝えて差し上げねばならない。
内容や観点や時世の読みなどではなく、いわば「プロトコルが古くなっている」状態であることを。
詳しく見ていこう。
1.言葉の置き方
強調する言葉は、「注目してほしい語句」になる。
重要だと思われるワードは、聞こえやすく大きめに、あるいはなんらかのテイストをまぶして声として発する。
これが常套手段だ。
それだけに「なぜそれを強調した?」という根拠は、「これでウケたかったんだ」という逆算を招来する。つまり、強調したのにウケなかったのならば、それはどこか(言葉じたいか角度の付け方か声量か、何か他の要素か)のチョイスミスであることが明確になるということである。
ただし、「古いしゃべり」のプロトコルだとこれは、そもそも常道の一つでもある。
なので、それ自体が悪いわけではない。
使い方の問題なのだ。
あまりに常用すると、それがただのリズム作りになってしまい、自分ではそのワードを強調しているつもりではないのに強調したように受け取られてしまう、つまり「短時間に何度も何度もスベッている状態」になってしまうのだ。
しゃべりの古臭さは、自身が持っているリズムの構築に慣れすぎ、アグラをかき、「いつもの調子」のせいで、正常な聴き手との距離感覚を見失うところから生まれる。
そしてそれは、2につながる。
2.間(ま)の誤魔化し方
「言葉を途中でわざと切る」「えー、あー、と母音を伸ばすことで時間をつなぐ」などの方法で、息継ぎに使ったり、次のワードに期待感を持たせる、というのは「間(ま)の取り方」としてのテクニックである。
ここで問題なのは、「達者にしゃべっている感を欲しがりすぎること」にある。
間(ま)の取り方として、「え〜」や「まぁ」や「あ〜」などは常用されるが、中に「シィーッ」というような、歯の隙間から息を吸い込む音を発する場合がある。
これは、わざと古老の落語家の演技をする人を見た時に、「おお、それっぽい!」と感じたことがある仕草だ。
つまり「ジジイがやること」なのである。
自分の間(ま)を保ちたい時、次のワードが出てこない時、「吸気」は、酸素を吸っている動作なので「必要な作業」に見える。
要するに「間(ま)が持たないことを誤魔化している」のだ。
この「シィーッ」が出始めたら、もうしゃべりは「説教専用モード」に入っていると言っていい。
誰にも責められることなく一方的にしゃべりたいことをしゃべるだけの立場に君臨した者が用いる手法だからだ。
これを無意識に頻発するようなら、もう挑戦者としてのしゃべりは、一切通用しない。
「面白い話をする人」ではなく「面白い話があるから聴け」と、自己満足している人にしかなれないからだ。
スベるだけのオチに向かう緊張感だけが、周囲には漂うだろう。
まさに自己満足。
これが、3につながってくる。
3.ほろ酔いの自分を“良い感じ”だと勘違いしてる
昨今は酒を飲みながらトークする番組が人気で、エンタメとして成立しているのでシロートですら、「酒を飲みながらトークしよう!」という企画で動画が作られていたりするが、うすら寒い。
勘違いも甚だしい。
フジテレビ「酒のツマミになる話」が成立しているのは、「酒を飲んでもバラエティとして完全に成立させられる話者(笑いの猛者)がしっかりと場を支配しているから」であって、「おもろい人が酒飲んだら余計におもろいから」ではない。テレビで飲酒が重宝されているのはスナックやキャバクラで(聴く)プロの女性相手に勘違いして「俺はしゃべりが達者だ」と自負しているおっさんどもとは理由が違う。
酒を飲んでいるのは話者のトークレベルのハードルを下げるためではなく、視聴者の「観るハードルを下げる小道具として使えるから」だ。リラックスするために飲んでいるのではない。
誤解を恐れずに言えば「もし酔い潰れても芸として画(え)として成立し得るタレントだから」成り立っているのである。
「もし泥酔したら吐いて、倒れればいいや…」というような覚悟とスキルでふわふわと好きなタイミングでしゃべっているだけのようなレベルの人間に、安易に真似できる企画ではないのだ。
存在じたいにすでに万金の価値がある人を除き、しゃべりに酒は必要がない。
無い方が良い。
多少、酒を飲んだ方が快調に口が回る、というのは完全無緊張ノープレッシャー状態の、リラックスした呑み屋での話だろう。
緊張感を解きほぐすために酒が必要なんだ、というのならば、そもそもしゃべるのが向いてないのだから即刻辞めるべきだ。
そもそも、酒を飲むと車の運転すら許されない。
ドライブしながらトークしましょう、という企画なら通用しなくなる程度の、レベルの低さなのだ。
アルコールで顔を赤らめ毛穴を開き、臭いゲップをまき散らす酩酊者に、面白い話などできるはずがない。もしそう信じているなら、そう思う時には毎度、すでに酔っ払っているんだろう。
仕事を終えて、最高に美味い酒を飲む。
これは至高の喜びだそうなので、それを否定するつもりなどさらさらない。
大問題はここからだ。
「酒を飲んでほろ酔い、ふわっと気分いい状態」が人生の中で最高…!という位置付けになってしまったら、もうしゃべりでウケることが、二位以下になってしまう。
つまり、しゃべりの筋が上手く運べ、途中の脱線から軽やかに戻れ、オチに向かって声量を整えられ、その時の表情、目の動き顔の向き、声の質感までをもコントロールでき…という状態を、キープできなくなるのだ。
ふわ〜っと、「言いたい言葉をただ舌にまかせて羅列している」ことに快感を覚えた人に、繊細なしゃべりを極めることなど、出来ようはずがない。
しゃべる時、酔っぱらってなどいる場合ではないのだ。
上手くしゃべれた快感で分泌されたエンドルフィンの作用よりも、アルコールが回った脳のドーパミン分泌に快楽が勝ってしまう、そんな状態のことを「アルコール中毒」と言う。
そうなってしまったらもう、赤ら顔・極度に乾燥した肌・開ききった毛穴・潤んだ目・呂律の怪しげな発声、それらを「味」として、開き直ってしまうしかない。
多くが、早めにそうなっていく。
ジジイの戯言をダラダラと発する、思い出話しかしない、間の悪い、滑舌の悪い人になっていく。
以上が「しゃべりの古臭さ」の理由だ。
ほぼすべての人が、この理由で古臭いしゃべりになっていく。
どこまで抗えるかは不明だが、知っておくだけで変わってくることもあるだろう。
参考にされたい。
…冒頭に挙げた「大先輩」の悪口を書いてしまったように見えるかもしれないが、本当は、本当のところは、ちゃんとアドバイスしたい。伝手を辿れば連絡先も、わからないわけではない。
年齢的にその「大先輩」が軌道修正するには、早い方がいいからだ。
まず「今日も酒が美味いぜ」という「最高の基準」を変えていただきたい。
そこから、「貴方が目指すべき方向はそっちじゃない」と、「百式観音」ごときクソバイスを差し上げたい。
いや…、これは我慢しなければならないことなのだろう。
こんな勝手な意見、かの「大先輩」には受け入れる義理も必要もない。
ただ自制し、自分のために使うのみだ。
または偶然、この記事にたどり着いた人に、「しゃべりが達者なまま加齢すると、みんなそうなるよ」という警鐘として、響けばいいかもなぁ、と願うばかりである。
終わりです。