21 Lessons、第4章は「平等」。
平等、という概念が生まれる前、おそらくはみな、平等だったんでしょう。
誰が偉いもなく、誰にひざまずくもなく、誰に使役されるもなく。
共同体としての、自分を含めた「自分たち」を守るため、進むため、生きるために、平等のことを考える暇はなかったのだと思います。
獲った獲物は分け与えないと誰かが死ぬ、その誰かは自分かも知れないから。
富の総体が増えて、とりあえずすぐには死なない、という状態になったとき、不平等が生まれ、それを是正した形を「平等」と呼ぶことにしたのでしょう。
古代には、土地はこの世で最も重要な資産であり、政治は土地を支配するための戦いで、あまりにも多くの土地があまりに少数の手に集中したときには、社会は貴族と庶民に分かれた。近代には機械と工場が土地よりも重要になり、政治闘争は、そうした必要不可欠な生産手段を支配することに焦点を合わせた。そして、あまりに多くの機械があまりに少数の手に集中したときには、社会は資本家階級と無産階級に分かれた。(p.109)
21世紀を進むとき、社会を分断する平等・不平等の元となるものはなんなのでしょう。
「注意商人(attention merchant。同頁)」と呼ばれるデータ企業は、無料のサービスや娯楽を提供して人々の注意を引きつけ、その注目度を別の企業に売っています。企業はその「注意」を買って商品などを売る画策をするわけですが、もはや商品の広告を出す企業から入る単純な広告収入よりも、「データそのもの」の売り買いの方が収益が上がるとなれば、個人のデータを蓄積することは、企業のあり方だけでなく、個人個人の生き方にも直接関わってくることになるでしょう。私たちは顧客ではなく、「製品そのもの」だということに。
自分でカタログを見て吟味して選ぶより、検索エンジンの方が自分の好みや社会の傾向や最新の技術について詳しいとなると、まかせておいた方が快適で、低コストな生活を送れるのですから、多くの人はそちらを選ぶでしょう。
新しいテクノロジーは、データを蓄積する少数の大企業と、そのデータによって人生を決める大多数の人たちに分かれていくのでしょうか。おそらく、そうなっています。
データの改竄やコピーや抹消をできるのは企業の側であって、運用方法を決めるのも大企業。
考えなくていい、悩まなくていいという自由を手にした代償に、選ぶ方法すら奪われてしまう圧倒的大多数の人々。
平等と不平等は、いつの時代もおそらく、そんな概念はない、というところから始まりました。
今回も、まず富と幸福の増大があり、「その分配具合ですぐに死ぬことはない」という状態まで進んで初めて「新しい不平等」が生まれ、その是正を祈念する形で「新しい平等」を訴える必要が出てくる、ということになるのでしょう。
でももはや、物理的な暴力革命や、フィジカルな大量殺戮兵器ではひっくり返らない「無形の不平等」がどんどん進んで、「快適を笑顔で享受する側と、それを笑いながら操る側」という(一見仲良さそうな)分断に、なっていく気がします。
「神の下に」あるとも言われる平等は、細分化された「その場の状況」のみに適用される、限定的なものですよね。
街ゆく人を指差して、「あの人と、自分とは、平等か!?」と問うたなら、「ある局面では完全に平等だけど、ある場面では全くの不平等」と言わざるを得ない。
「完全なる平等」が完全なるフィクションだとしたら、我々が目指すべき(目指しているつもり)の平等とは、「できるだけ、不平等を感じずできるだけ小さくしようとする努力目標」程度のものでしかないということになりますね。
次、第4章は、第2部に入ります。「コミュニティ」です。