【境界カメラ#72】徳田神也回#2 「宗教についての雑談」
http://live.nicovideo.jp/gate/lv318241923
2019年にマイナーチェンジし、「あの謎」が解けた後も閉局はしない「境界カメラ」。DVDの第3巻、いわゆる「解決編」の発売も控えています。
そして番組はさらに自由度が上がり、また私がお出番をいただくことに相成っております。
考えてみるに私が一人で登場する回はたとえどんなサブタイトルであっても「徳田回」なわけで、内容がなんであっても回顧する際は、おそらく「徳田回」と呼ばれてしまいます。
単純に、それならいっそ最初からそういう名前にしてしまおう、と思いました。
2018年は「理詰め&BLUES +(プラス)」というサブタイトルで「しゃべるだけの回」を担当させていただいていましたが、おもしろいものでそういう名前をつけると、「あんなものは理詰めではないw」とか「理屈では俺の方が上!」とか言い出す輩がほんのごく少数、出てくるんですね。非常に面白い現象ですよね、出てくるみたいなんですよ実際。ほんと、男っていやぁね。嫉妬っていやあね。というより、バカっていやね。
「+(プラス)」という部分も、このブログからの派生であるということすらそういう人らにはおそらく伝わらずじまいだったんだろうなぁ…なんて思ったりもします。
少し残念ではありますがそれについてはもう、考えないことにしましょう。
今回は「#2」をつけていただいていますが、別に次回が「#4200」でも良いような気がします。
ただの「無宗教かっこいい教」ですよそれ
たいてい、宗教について雑談をするような機会に接すると、「俺は無神論だ」というような態度のエラそうな男の、「宗教なんて信じるのは非科学的であり、理知的でないヒステリックで稚拙な行為だ」というような態度で上からモノ言われて終わった、というような経験、あるのではないでしょうか。
あるいは、自分がその「わかったようなエラそうな男」になったこと、あるかも知れません。
そんな男も、お盆になるとせっせとご先祖様のお墓まいりをし、新年には神社には詣で、縁起担ぎのご利益をいただけるという事物に思い切り寄っかかって生きています。
「宗教」を馬鹿にできるような資格は、居酒屋などで雑談ついでにエラそうに無神論をブつような男には、そもそもありません。
宗教についての雑談
「宗教についての雑談」は、その時点で、おのおのが、「自分ではどうしようもない気持ちや流れ」に対して、どのような感情を持って対処するか、を整理するためにあります。
前回の、「死についての雑談」にもその性格は、とてもよく似ていますね。
「宗教」という言葉から発せらる自分に向かってのビーム、これをどう受け止めることができるか、その多様性とパターンの多さを鑑(かんが)みるに、現代社会の方がすでに既存の宗教よりも情報量が多く感じる時代になって来ている、そんな気すらします。
ネットに触れ、スマホを触り、ニュース、ゲーム、音楽、仕事、映像・映画、漫画、おしゃべり、そんなことをしていると、宗教になんかたずさわるヒマはない。
それをして宗教学者の島田裕巳氏は「宗教消滅」と位置付けて、論考してらっしゃいました。
資本主義は宗教と心中する―迫り来る『宗教消滅』の時代―
https://online.sbcr.jp/2015/09/004101.html
宗教と距離をとってるつもりの私たち
週末にピンポーンと玄関に立っている宗教の勧誘オババたちは、それら、現代が大きなうねりとなって作り出している情報の波には足首までも浸(つ)からず、2000年前の経典の文字だけを追って過ごしているんでしょうか。
宗教がもたらしてきた安寧や、宗教に求められてきた平穏が、宗教以外の情報によって成立していく。不安や苦しみが、テクノロジーで解決するならば、それこそが「神」と同等の権能を持つ、ありがたい至高の存在になり得る。
実はわれわれは、そんな時代に向かって生きている。
そう、言えるような気がしてきます。
既存の宗教は、世界に何もなかった時代に、それを補完する形で生まれた産物…と言うのはあまりにも短絡かもしれません。さらに近代に入って生まれた新しい宗教は、既存の宗教が埋められなかった心の溝を、時代に適合した形で埋めてくれようとした。
今、その新しい宗教にすら近づく人が減った時代に、われわれは何を宗教とし、救いと求め、祈りを捧げるのか。
「それを考える時間が最も長く」、「誰にも言えないことも心の中で言える相手」。
いったい、それはなんなのか。
この話に、終わりも妥協点も(ましてやオチなど)ありません。
宗教にについての雑談は、死ぬまで続くのです。