自論構築過程

「安全より安心を優先しろ」は寝言か?

投稿日:2017年3月17日 更新日:

肉

原発や放射性物質、甲状腺癌の過剰診療や食品のこと、最近では豊洲・築地の移転などに関して、「安心」と「安全」のことが取りざたされています。

やはり、この2つを混同したままの人はとても多いし、それ(その混同)は将来に渡って、とても危険なことだと思います。

なにより、不安の少ない人生を生きる上でもとても重要だと思うので、この際ちゃんと整理して、わかっておきたいです。

 

まず、「不安」はどこからくるか。

不安とは、「安心じゃない」ことを言いますよね。
つまり「安心」は、「不安がなくなれば」訪れる、っていうことですね。

では不安は、どうやって無くなるんでしょう。これが難しい。

その方法の一つとして、「安全にする」があります。

例えば、どうやら日本には大きな地震がまた来るらしい。
そのために耐震構造の家を建て、防災についてしっかり学びがっちり記憶し、食器や調度品は倒れないように処置して食料・水を3年分備蓄し、連絡網を張りめぐらして所在を明らかに、そしてそして、できるだけ海外に住む。

これで、「安全」。

安全なはずです。
ちょっとくらいの揺れなら、何も起こらないし被害はないはず。
でも、これでも「安心じゃない。不安。」だとしたら、何が不安なんでしょう。

実際、ここまでの対策ができる人はそんなにはいないので、まず「耐震構造の家が建てられない」時点で、不安は絶対に消えない、ということになりますよね。わかります。

今から新築で耐震構造の家をガッシリ建てるって、なかなかの費用です。
来年、そんな大きな地震が100%来るなら大借金にも踏み出せそうですが、いつ来るやも知れぬ段階で、銀行も「いや、そこまで頑丈な耐震家屋、要ります?」というくらいの資金、貸してくれない。

そうなると、もはや「不安」は「収入」の方に移ってしまっている。金がないことの不安。

そう、「不安」は、心的な、多方面的な、総合的なものですから、その原因を、他人が完全に知ることはできないんです。

しっかりした耐震構造の家ができても「私、姑さんとうまくやっていけるかしら…」っていう不安がそもそもあったりしますし、「トイレがうまく流れない」とかもあるし、「太ってきた」とかもあるでしょう。

それらを言えない場合「やっぱり地震が怖いから、どこかへ引っ越したいワ…」と言っておけばいい。

 

野菜

 

「安心」は、心の問題です。

「安全」は、科学的に、客観的に、判断できるもの。数字でも表せるもの。

本当に100%安全かどうかは別だとしても「この土地では1000年、人殺しは起こっていない」と言われれば、その「1000年」という数字を見て、「ああ、安全だ」と言うことはできる。もちろん、1000年安全だったからって明日何が起こるかはわかりません。
でも「安全」という、いわば他者視点の、科学的な、数学的な指標があると「安心」は得やすいんですね。

ここからが重要です。

上に書いた「1000年安全だった」という事実と、「だからって明日何が起こるかはわからないという気持ち」。

そう、気持ちを優先させる限り、「心の不安」は、ゼロにはならないってことです。

じゃあ、同じ「明日何が起こるかはわからない」なら、「1000年安全だった」街と「わりと死体とか見たことあるよ」な街、どちらに泊まりたいですか?っていう話。

これをもっとレベルを下げて「30年前に殺人が1件あった」街と「こないだまで警察なんかなかった」街、どちらかに住まなければならないなら、どちらにしますか、っていう話。

肉2

つまり、「リスク」ってそういうことですよね。

リスクは、どっちにしても取らなきゃならないんです。

だから、どうせなら「危なさ」のレベルの低い方を、取る方がいい。
「絶対に殺人がない」なんて、誰にも言えない。
「絶対に過去の全て、未来永劫、殺人が1件もない街でないと、嫌だ」なんて言ったら神様だってパンツ脱いで逃げていきます。
「人が死なない街」という言い方はできるけど、「隕石が衝突しない星」は無い。

つまり、「安心」を勘違いしている人が多いということですね。

安心は「まぁ、そういうことなら安心だわな…」と、心で、折り合いをつけるものです。

その折り合いには、「安全」を担保にするのが一番いい。
「安全」を理由にして、不安の度合いを低くしていくしかない。

絶対に、ゼロにはなりません。

「不安がゼロになった状態」を「安心」だと思ってるから発狂するんです。

間違って、「疑いがゼロになった状態」を目指したりすると、客観的な資料と主観的な感情がごっちゃになって、永遠に、心に平穏は訪れません。

「何を言われても安心できなーーーーいッ!」という、地獄に落ちます。
そして、「この安心できない気持ちは、誰のせいだ!?」と、犯人探しを始めます。
国だ!
東電だ!
政府だ!
官僚だ!
マスコミだ!
お前だ!!!

 

…そういう人、たくさんいます。

「安全」は、多数の他人が作ることができ、事実として示すことができる(これを科学的という)のですが、「安心」は自分の精神の問題なので、答えは自分にしか出せません。

自分の心の中にある答えを、他人のせいにして探そうとするのは、不可能なのです。

わかりやすく説明してくれているサイトがありましたのでご紹介します。
なんと日本石鹸洗剤工業会という団体の講演録。
JSDAのサイトから画像をお借りします。

JSDA

http://jsda.org/w/01_katud/jcseminar07_04.html

 

全部読む必要はないかもしれませんが、「安全ですら、評価には限界がある」とも書いてありました。
確かにそうですね。

1日に、みかん1〜2個を食べるのは「安全」だが、20個は?100個は?と言われたらどうも「安全」ではないっぽい。内臓的に。

だから「安心なのは1日1個〜20個です」とか公的に言わなければならないのか?じゃあゴマは?エビは?食べ物だけでなく「習字を1日にして良い安全基準は40,000字」とか、いやそれ言う必要ある?っていう。

「評価には限界がある」と言うのはそういう意味じゃないかもしれませんが、とにかく「限界はある」ってことです。

 

で、こういう記事を発見しました。

安心、とか安全、ということを意識していると、こういう記事を見つけました。

毎日新聞社生活報道部編集委員の、小島正美氏による記事。
ネットに上がっているものを発見しただけなので、出典がわからなかったのですが、探しまくると、ありました。一般社団法人 日本青果物輸入安全推進協会の、「菜果フォーラム」という冊子です。pdfが公開されています。

http://www.fruit-safety.com/book/pdf/sf16.pdf

ここに寄稿されたもののようです。
※もちろん問題あれば、画像削除します。
※2020年追記:上のURLはリンク切れ。というかドメイン切れてる。

 

1

 

 

2
一読して「おああああ」となったので、意義があると感じ、ここに全文書写します。
※問題あれば、削除します。

食情報検証
「安全」よりも「安心」を重視しよう

毎日新聞社
生活報道部編集委員
小島正美

「食の安全・安心」という言い方は、もはや後戻りできないほどにすっかりと定着した。安全と安心の両方を満足させることが理想だが、現実にはなかなか難しい。では、どちらに重点を置いて、リスクコミュニケーションを図ればよいのだろうか。最近は「安心」をもっと意識すべきではないかと思うようになってきた。なぜか…。

世の中を動かす要因は何か

安全と安心は全く別物で、「安全」は科学的に説明できるが、人の感情に左右される主観的な「安心」は人それぞれであり、科学の概念にはなじまない。科学が解き明かせるのは安全のほうである。これがおおかたの専門家の見解だろう。
しかし、よくよく考えてみると、いまの社会は「感情で動く市民」が主役である。どう見ても、現在の世の中は「安全」というキーワードでは動いていない。専門家がいくら安全だと主張しても、多数の市民が「不安だ」と叫べば、行政機関や民間企業はそれなりの対応を取らざるを得なくなる。「無添加」をうたった商品が後を絶たないのは、民間企業が安全よりも安心を重視している表れのひとつだろう。

メディアも安心重視

一方、メディアは安全と安心のどちらを重視しているのだろうか。予想される通り、市民の感情や弱者の気持ちを大切にするメディアは、「安全でも安心できない」という市民の素朴な声をニュースに取り上げやすい。
築地市場の豊洲移転問題でベンゼンやヒ素が少しでも検出されるだけで、記者たちが大きな見出しの記事を書くのは、市民の安心志向に応えるものだ。「ヒ素が環境基準を少し超えて検出されたくらいで食の安全へ影響は全くありません。市民の皆さんの不安は根拠のないものです」といったニュースを書く記者はいない。市民の感情を逆なでするようなニュースは、市民を怒らせるだけである。市民の不安に寄り添うニュースが良いニュースなのである。

安心が王様で、安全は僕(しもべ)

こんなことを言うと、科学を軽視しているかのように見えるかもしれないが、そもそも安全とは何かを考えると、実は安全かどうかは市民(または市民の感情)が決めているものなので、確たるものではないような気もする。仮に多数の科学者が「Aという化学物質は、動物実験や過去の疫学調査などで安全です」と説明しても、それでも半分の市民が「いくら説明されても、私は不安です」と答えたら、その化学物質への不安はなくならない。
消費者庁は多額の予算をかけて、年間100回近くも放射性物質のリスクコミュニケーションを行っているが、理解はなかなか進まず、「福島産を避ける」人の割合はあまり減っていない。これは、科学的な安全性を理性に訴えて説明するだけでは効果がないことを表しているように思う。
では、なぜ、国や科学者が安全だと言っているのに、市民は安心できないという気持ちを持つのだろうか。
ここで脳と感情(心)の関係を考えてみる。実は「安心の方が安全よりも上位にある」のではないか。つまり、安心が王様であり、安全は僕(しもべ)なのである。

内臓は心をもつ

昔から、「腹が立つ」とか「腹わたが煮えくりかえる」とか「断腸の思い」など、胃や腸を中心とした内臓が心(感情)をもっているかのような表現があった。私たちが感じる感覚は、どこから来るにせよ、いったんは脳内の視床のような情動回路を通過して処理される。情動の回路を通った情報は、たとえそれが知性として表れた行為であっても、もはや純然たる知性ではありえない。
内臓は独自の心をもっていることを人の試験で確かめたという内容の本を読んでいたら、次のような文言に出くわした。これまでは「知性が主人で、情動は奴隷だといった考え方が主流であった。現在は逆に、情動が知性を決定しているのではないかといった方向になってきた」(福士審著「内臓感覚」NHKブックス)
不安や敵意などネガティブな感情をもつタイプの人は、そうでない人に比べて、心疾患のリスクが高いという数々のエビデンスもある(大竹恵子ら著「保健と健康の心理学」ナカニシヤ出版)。逆にポジティブな心理は心疾患のリスクを下げる。こうなると、市民が安心するかどうかが、政治でも健康でも大きな鍵を握ることが分かる。

安全と安心の4つの構図

では、安全と安心の関係はどうなっているのか。安全と安心の構図は次の4つの次元で表せる。
「安全なので安心だ」
「安全だけど、安心できない」
「安全ではないけれど、安心だ」
「安全ではないので、安心できない」
ニュースの観点から見ると、「安全だから安心できる」は当たり前過ぎてニュースにならない。信頼できる専門家が安全だと説明すれば、さらに安心感は増すだろうが、問題は、それでも「安心できない」というケースだ。
ニュースが着目するのは「安全だけど、安心できない」という状況である。消費者庁のリスクコミュニケーションは、いくら科学者が説明しても分かってもらえないというケースである。
もうひとつおもしろいのは、「安全ではないけれど、安心する」というケースだ。例えば、こんな記事(朝日新聞)が昔あった。2011年秋に東京の子供が鼻血を出し、親は不安にとりつかれた。しかし、ある医師が「それは放射性物質のせいかもしれない」と説明したら、安心できたというのだ。なぜ安心したかといえば、原因が放射性物質だと分かったから、安心できたと記事に書いてあった。
放射性物質が原因なら、それなりのリスクがあるはずであり、不安になってもおかしくないが、原因がわかれば安心するという心理が確かに人にはあるのだろう。たばこを吸っている人の心境も似ているかもしれない。大きなリスクがあっても、不安を感じている人は少ないようだ。
危険イコール不安(安心できない)とは限らない。

健全な不安もある

多少のリスクはあっても、それは受け入れられるリスクだと自覚すれば、安心できるわけだ。このあたりの安全と不安の関係でおもしろいのが工学系のリスク観だ。洪水などを学問的に考える工学系の専門家はよく「安全だと油断してはいけない。安全だと思っていると備えを怠ってしまう」という言い方をする。災害はいつやって来るか知れない。油断は禁物。健全な不安感をもって、常に備えるのが洪水被害に遭わないためのコツだという意味である。
不安にも、健全な不安と不健康な不安があるようだ。洪水に備える不安は健全な不安である。健全な不安は、受け入れ可能な不安と言い換えてもよいだろう。「科学的には安全です」と説明しても、分かってもらえない人には「その不安や安心できないという気持ちは健全なものです。わずかなリスクでも、そこに注意を払うことはよいことですね」と言って、安心できない気持ちをまずは肯定的に受け止めることが必要だろう。
つまり、食品のリスクコミュニケーションでまずは心掛けることは、どうしたら安心してもらえるかを考えることだ。安全だと言っても、安心できない人もいるし、安全でないのに、安心する人もいる。どちらにせよ、主役は安心できるかどうかである。安心できる状況をつくってしまえば、安全はそのあとを影のようについてくる。
その観点から、放射性セシウムの食品の基準値を振り返ると大失敗だった。当初1kgあたりの500ベクレルという暫定値があったが、国は国民の安心を考慮して、100ベクレルという厳しい値を設定した。安心を考慮したのはよかったものの、なぜ、厳しい値を設定してしまったのか。基準値を厳しくするほど放射性セシウムは危ないという印象を助長しただけに終わった。メディアの論調は100ベクレルでもまだ高いという空気が強かった。
もしも、セシウムの基準値をEU並みに1000ベクレルにしておけば、「1000ベクレルでも大丈夫なんだ」という空気ができて、安心感は強くなったのではないか。
科学的に安全かどうかは、結局は人が判断するものだ。その判断は情動を経由した気持ちだ。専門家といえども、自分の専門分野を一歩はずれると、普通の市民感情とさして変わらないというケースをよく見てきた。
安心を軸としたリスクコミュニケーションを展開すれば、これまでとは異なる世界が見えてくるような気がする。

※2020年追記:現在、小島正美氏は毎日新聞社の人ではなく、「食生活ジャーナリストの会」代表。

 

全文読むと、少し怒りがこみ上げてきます。

執筆者の小島正美さんは、

1951年生まれ。74年愛知県立大学外国語学部英米研究科卒、同年毎日新聞社入社。サンデー毎日や長野、松本支局を経て87年東京本社生活家庭部記者の後、95年千葉支局次長、97年から現職

だそうです。

私が一番問題だと思うのは、このコラムが、「風評被害を肯定している」ように読めること。
いえ、そういう意見があってもいいとは思いますよ、「意見」はね。
でもですよ、この人、「メディア側の人」なわけです。

市民の感情を逆なでするようなニュースは、市民を怒らせるだけである。市民の不安に寄り添うニュースが良いニュースなのである。

じゃねえよ、と思います。
何ヒトゴトみたいに言ってんの、と。

専門家が説明したって、いくら「安全です」と言ったって、「安心できない!不安だ!」と言い続ける人たちはいるから、「あなたの不安は当然です」と言ってあげることが必要、ですって。

確かに、不安なんだよね〜わかるよ〜、と、とにかく背中を撫でてあげることは時に大切ですよ。
目の前の人の感情を、あまりにも激しくなりすぎないように「なだめる」にはね。
時にそういう「とりあえずの行動」が、必要なことはある。

でもそれは、「正しい情報を遮断する」のとは違います。

「安全」と「安心」の話をしてるのに、そこに「健全な不安」と「不健康な不安」なんていう、新しい評価軸を持ってくるのは、卑怯ですらあると思います。

「これは、こういう理由で結果が出ているので、安全です」と、繰り返し、報道し続けるのがメディアの仕事じゃないんですか。
心情に寄り添えればデマでもいいんだ、たとえ真実でもダメなんだ、なんて言ってたら、いつまで経っても不安を抱き続ける人は減りません。情報を知らず、正しく理解せずに「安心できない!不安だ!」と叫び続けている人らに冷静に、正しい最新の情報を届けて「ああ、まぁそれなら安全だね。不安になりすぎるのはいけない」という風に「賢くなってもらう」のが、新聞の仕事でしょう。

毎日新聞は「読者はアホでいい、それがニュースであり、メディアなのだから」と言っているんですね。
アホらには正しい情報を知らせずに、「読者が欲しがる、感情が増幅する内容だけを載せる」って言ってるんですよ。

 

それ、戦争を煽った時と、全く同じ論理です。

「わかりやすい安全」と「わかりにくい安全」があるので、「わかりやすい安全」になるように社会が、メディアが、努力していかなければならない、というのならわかりますよ。

でもこの小島正美氏は、「不安はそれで良い、だってニュースって、メディアって、不安を煽るもの、だから」と開き直ってるように見えます。
そんな怖い毎日新聞なんか誰が読むか。

 

いわゆるPOST TRUTH

安心が王様、安全が僕(しもべ)というのはわかります。
最近も、「post truth(ポスト真実)」という言葉が流行語になりました。

これは

「客観的な事実が重視されず、感情的な訴えが政治的に影響を与える状況」

※オックスフォード辞書より

「感情が優先し、それに引っ張られる形で実際の政治が動いた」と感じる人が、多かったんですね。トランプ政権が生まれた経緯でも、トランプのあの激情的な(劇場的な)言動が、まず「おお!激しいこと言うな!なんか勇ましいじゃねえか!トランプに1票だ!」という流れになっ(ているように見え)て、冷静な政策などは後回しに感じた。だから、メディアの使い方、SNSの使い方で、政治や主張って、大きな流れさえも変えてしまうんだな、と多くの人が実感したのです。

だからこそ、重視すべきは「安全」なんです。

この小島氏の意見だと、「安心が王様、安全が僕(しもべ)」だから、安心を優先させましょーねーっていうことなんです。

何言ってるんでしょうかこの人。
出すべき結論が逆でしょう。

安心が王様、安全が僕(しもべ)、つまり「人間はそもそも、情動に振り回されて、理性的な判断を見失うものだ」というのは「前提」ですよね。
「安全が優先するように、理性的な判断を失わないようにしましょう」という結論にならなきゃおかしい。

なんで「だから情動を優先しましょう」っていうことになるの????

「腹わたが…」とか「内臓が…」とかは余計な脱線です。
情報を取捨選択して発信する側、メディアに身を置く者が「安全基準値を高く設定したら、危ないという印象を助長しただけに終わった」じゃねえだろう、と。

「安全基準値を高くしたので安全性が高いです」と報じ続けるのが使命でしょう。

毎日新聞は、不安を煽るだけの瓦版なのか???

 

最後の方に書いてある

科学的に安全かどうかは、結局は人が判断するものだ。

いや、だ・か・ら、その判断基準を外部に設けるのが、「科学的」ってことだから。

自分で何書いてるかわかってるんですかねこの人。

わざと、炎上狙いでそういう感じに書いているようなニオイすらしてくる。
いや、どうだろう。
わざと書いてる感じではないですね…だってそんなに立派なメディア人が、こんな認識だったら…ちょっと怖い。

「食品技術士センター」というところでも「メディアから見た食の安全・安心問題」という題で講演をされているようですが…「安全なんかあんまり意味ないよ。嘘ついてでも安心させようぜ」なんて言われちゃあ、食品技術士の方はどう思うんでしょうかね(そんなことは言ってないけど)。

いろんなところで執筆もされている有名な方なので、これはひょっとして「あまりにもそういう放射脳な連中に依頼された、苦肉の原稿だったのでは…」と、忖度する次第です。

 

「安全」「安心」に関する今回のまとめ

1、「安全」と「安心」は、混同してはイケナイ
2、社会全体としては「安全」を目指ス
3、個人として「安心」の落としどころを探ス
4、「不安ゼロ」はありえないと知ル
5、メディアの「煽ってるだけ」に注意スル
6、ジジイどもの雰囲気のみの説教は無視してヨロシ

 

以上です。

 

 

 

 

 







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