【境界カメラ#56】
徳田神也の理詰め&BLUES + 第8回
〜みんなで幽霊を見る日〜
http://live.nicovideo.jp/gate/lv315655781
今回、紹介した本は、こちらです。
↑買いましょう。
この本では、「幽霊画」とはどういうものを指すか、という定義から始まります。
それがわかった状態で見ると、とても明快です。
すべて「幽霊が描いてあれば幽霊画」には違いないんですが、幽霊が主役で幽霊しか描いてないのはそれと呼んで当然だとしても、脇役として、エッセンスとして、遊びとしての「妖(あやかし)」たちがユーモラスに出てくるのも、幽霊画と呼べなくはない。
円山応挙
土佐光信
川鍋暁斎
葛飾北斎
渡辺省亭
矢野雍斎
鰭崎英朋
清水節堂
薪直斎
大森眠龍
山川秀峰
勝川春章
伊藤晴雨
勝文斎
嶋村成観
月岡芳年
應岱
竹思庵一静
松本楓湖
鈴木誠一
中村光村
菊池容斎
らの、江戸〜昭和の画家たちが描いた幽霊たちが、その要請と画力が良いところで合致した状態で、こちらに何かを訴えているかのようです。
イメージ(画像)として、テレビもネットもなかった時代、「あそこの座敷で見た、あの幽霊の掛け軸!!!」という強烈な印象は、もはやその人の一生を支配して、なかんずく「死(または死後)のイメージを決定づけるものになったことは想像に難くありません。
我々は、どうしても「今の感性、今の価値観」で昔を見てしまうという軛(くびき)から逃れることが難しい。
「◯◯がなかった」という想定でものを考えることは、「◯◯が最初からある世代」には、完璧には無理なんですよね。
ドラマ「水戸黄門」の中でご老公が「ストップ!」と言ったという伝説(噂?)がありますがw、じゃあ、ストップがダメなら「止まれ!」なのか。
光圀公の生きていた時代(没年は1701年)に、「止まれ!」は通じる言葉だったのか。
西洋医学も物理科学もない昔の人々にとって、幽霊を描き出す絵師たちは魔法使いに近い存在と言えなくもないでしょう。感じるだけで見えない世界を、目の前に浮き彫りにしてくれる。限られた条件が、想像力を無限大にしてくれた。
絵師本人の念やイマジネーションと「世の中を怖がらせたい」というエンタメごころ、みたいなものが(昔のことばでなんて言うんだろうw)、この、情念が滲み出てくるような幽霊がの数々に、乗り移っているように感じました。
実物はどこで見れるか
さすがに個人で「はい。幽霊画、壁に飾ってますよ」という人はかなり少数だと思います。
なんとなく、「お寺に預けるか…」となるのも納得。
この本に掲載されているように、かなり蒐集が進められているお寺も多いようです。
そして「恐ろしいからお寺に…」という畏怖が、「恐ろしいからこそ魔除けになる」と、供養た雨乞いに使われたりした。
これも、「究極の怨霊」の際に紹介したように、「魔力が強いものは、ちゃんと祀ればガーディアンとして作用する」という、日本が古来から持っている「怨霊信仰」のなせるわざ、という感じがしますね。
今回紹介した『幽霊画と冥界』では、
全生庵(東京都台東区)
金性寺(福島県南相馬市)
徳願寺(千葉県市川市)
法林寺(千葉県柏市)
などが紹介されていました。
表紙になっている、伊藤晴雨作「階段乳房榎図」は、全生庵にあるそうですよ。
というわけで今回は「みんなで幽霊を見る日」でした。