平将門のイメージは、武神・軍神、そして大怨霊。
関東に新帝国を建設しようとした、猛々しい武王・覇王。
もはや現代の我々に、その面影から逃れる術はありません。
江戸の総鎮守として祀られた神田明神では、明治になって「天皇絶対」の方針に政府が猪突猛進する中で、「朝廷に逆らった大逆臣」扱いされたりしたそうです。
だけど平将門が、関東の地でしようとしたことは、一体なんだったのか。
たった2ヶ月ほどの期間に鎮圧、そして晒し首になった平将門。
単なる「乱」扱いをされてしまいましたが、平将門を討伐した藤原秀郷(ふじわらのひでさと)、いとこの平貞盛(たいらのさだもり)は共に、子孫がやたら繁栄し、一流の武家として有名な武将も多数輩出しています。
それぞれ藤原氏の中の「秀郷流」、平氏の中の「貞盛流」と呼んだりして、その流れの系譜が出来たんですね。それくらい、みんな先祖を誇りとして活躍し、出世して繁栄した(例えば平清盛は貞盛流平氏)。
関東における平将門の活動が単なる「乱」扱いになったということは、「なんだか関東で暴れてる奴がいる。もうとにかく早く取り押さえよ」という京都からの命令に「従った方が得だ!」と判断する勢力の方が断然多かった、っていうことでもあります。
まさはん、独立っつったってその先どうすんのさ
とか
まさはん、そうは言ったって良い目見るのはあんたらだけでしょ
とか
まさはん、帝に逆らっていいはずないでしょバカなの
とか
そういう気持ちになるのが「当然」の世の中です。
天皇は「神様」なので、神様に逆らってどうすんのよ、と笑われるのが関の山。
そして京都の貴族からすると今の東京・神奈川・茨城・栃木なんて「知らん」と言い切れるくらいに遠いところだったようですし。
武士政権ができるのは鎌倉幕府を待たなければならないので、まだ「武士の世の中」なんてことはあり得ない、「フィクションでしかない時代」だったんですね。
武士がなんで力を持ってくるかというと、武器を持って戦えるから、ですよね。
刀と弓で、「殺すぞ」と脅せるというリアルなヴァイオレンシビリティ(そんな言葉はないか)がある。実際に殺すし、「殺し合いで勝ち取る正義」を持ってる。
その暴力性を利用して、地方では実際に支配ができてたんでしょう。
言ってみれば農民を脅して、言うこときかせてた。
貴族はそんなことしないのか、っていうとそんなことはなくて「直接手をくだしたりはしまへんえ」というだけで、汚れ仕事を身分の低い者にやらせてただけです。
貴族と天皇の神聖性を利用して、よく考えたら理由なく「高貴だから」という感じで言うこと聞いてた武士たちの中に「さすがにちょっといつまでもこれは無理」みたいな論理が、芽生えてくるんですね。
伝統と格式よりも、実効支配の旨味が勝つ、という状態に。
平将門は「実際の良さ」というか、「実態ある支配」が、武の力でできることを証明しようとした。ある程度は成功したけど、まだ世の中はそこまで進んでなかった。
「土地の実効支配」が名実ともに揃う状態を実感として得るに至った平将門と、「いやいや京都の権威がなくちゃやっぱり無理よ」とその時点のリアリティを優先した勢力と。
だけど承平・天慶の乱以降、この「武力があれば実はできるじゃないか、関東なら」という気持ちは100年、武士の中で育まれ続けたんですね。
武士の常識、武士の歴史、武士の考え方、武士の鬱屈、武士の正道。
それがいい感じにたまったところに、奇跡の前例「平氏の天下」があった。
武士政権樹立、という意味では源頼朝による鎌倉幕府のイメージが当然ものすごいわけですが、平清盛をはじめとする平氏の隆興は、平将門と同族だけにとにかく「武士の天下!」という状態を、京都では初経験することになったんですね。
初体験だけに「しかし武士ってオイ…」みたいな、うんざりされるところも顕著に現れた。
源頼朝は平氏を倒す過程で「平氏みたいになっちゃいかん」と気をつけることができたんですけれど、人臣位を極めた平清盛一門は「平将門公以来の、天下への夢、まさに実現!」みたいな奢りにふけってしまったと言えるのかもしれません。
しょうがないですよね、平将門も平清盛も、お手本がなく進んでるから。
幕府創設、という意味では源頼朝も前例ナシで突き進んだんだけど、結局そんなに思い通りにはならないうちに死んじゃった。
平将門の夢、は源氏/平氏の枠を超えて実現し、明治維新まで600年以上続くことになります。
その短く儚く激しい夢を、彼はわずか30代半ばで、燃やし尽くしたのです。
新しい御神像には激しく燃えた武人の激しさと、坂東の地ののどかで雄大な姿が、ぼんやりと映し出されているようでした。
令和の将門 in 神田明神 5月に奉納された御神像を特別公開
https://www.tokyo-np.co.jp/article/25553