海容 カイヨウ
かい‐よう【海容】[名](スル)海のように広い寛容な心で、相手の過ちや無礼などを許すこと。主に手紙文で用いる。「失礼の段、ご海容ください」
※コトバンクより
「笑覧」とか「寛恕」とかのように、これって動詞なんですね。
でもどちらかというとやはりこの「海容」も、「お願いしたり、鷹揚さで自発的に行なうこと」であって、他人に命令するようなことではない。
「おい、海容しろ!」とは使わない。
「あ〜もう、ここは海容すべきだろうがよ〜」とか、悔しがったりするものではない。
許すというのは、なかなかに趣き深い感情の動き、であります。
「許す」というからには、その反対に「許さない」があるわけですが、まず「どうして許す・許さないという判断をするに至ったか」という原因がある。
「許す・許さない」の選択をする原因がある。
許すの対義語は、本当は「許さない」でも「許してもらう」でもなく、「許す、とか許さないじゃないよ。と思うこと」ではないでしょうか。
その主体は誰?
例えば、家でタンスの角に足の小指をぶつける。たまにあります。
あれほど、普段無視している部位に神経が集中することはありません。
なぜ?なぜそこをそんなに?
どうしてあと指1本分、まさに足の小指1本分、どうしてうまく避けられなかったのか?
まるでボールを蹴るようにッ!!あああああッ!痛いッッッッ!!!となります。
もし、ぶつけたのが、10分前に「これ、片付けておいてね」と誰かに言っておいたはずの重い箱だったら…。
「片付けとけって言うたじゃろうがあああ!!!」と、怒ります。
怒りますよね?髪の毛逆立ちます。
でも、ぶつかったのは自分なんですよ。
これがもし、「ぶつかってしまった自分」へ怒りがうまく向けられたとしたら、「いや、ほんとは注意してればうまく避けられた。いや、注意力など駆使しなくても、感覚で避けられるのが普通。アホなのは自分だ」と、簡単に許すでしょう。
スッと怒りではなく、「ウヘヘヘ」みたいな情けない感じの自嘲に変わるんですよね。
でもフツー、人間は、自分自身だけは「許す・許さない」の対象ではないと思っているものですから、ふわっと不問に付します。
ずるいのです、自分に対してだけは。
確かに片付けてなかった人も、うっかりしてたんでしょう。
でも、「足の小指をぶつけろ」という目的で、置きっぱなしにしていたのではありません。
それもわかる。
片付けを忘れていた、ことと、足の指を痛打したこととは、関係がありません。
なのに、指を打った瞬間「片付けとけって言うたじゃろうがあああ!!!」となる。
おかしいんですよ、原因への遡り方が、わりと自分勝手になってしまうのです。
バスや電車に乗り遅れて怒ってる人がよくいたりしますが、自分が悪いんですよね。
子供なら「朝起こしてって言ったでしょ!!!」とママンに怒ったって可愛いもんですが、多くの人が、自分が原因のくせに、他人に怒っている。
多少怒ることが正義だ、とでも言わんばかりに怒っている。
「真っ当な大人は、真っ当に怒ることができるんだ」というようなのを聞いたことがあります。
自分が心血を注いだ仕事であったり作品であったり計画を、侮辱されたり、軽蔑されたり、阻害されたり、無効化されたりしたら、怒っていいんだと。
真っ当な怒りは、発散していいんだと。
聞いたことありますよね?
それは正しいし、おとなしくヘラヘラしているなんてダメだと。
怒る時は、プライドを汚された時は、怒っていいんだと。
正しく怒ることが大人だと。
とんでもない見当違いだと思います。
どんな理由であれ、怒ることを正当化しているようでは、それは幼稚だと言われても仕方がないと思います。
「幼稚で何が悪い。ときには幼稚でも良いのだ」と言うのなら、まぁそれはそれでいいと思います。
開き直っているような人間に、まともな論議はできないからです。
怒るのは、とにかくだめみたいです。
説明します。
実は、「怒っているのは自分」なんです。
例えば、海辺を歩いていて、カモメかウミネコかの大群が空を舞っている。
ああ、すごいなぁ鳥って、とか思っていると、その中からの数羽が急降下して来て、自分の腕を傷つけた。
ああっ、痛い。
血が出ている。
うう、としばらく腕の傷を見ていると、また違う数羽が降りて来て、今度は頭を突く。
髪が血で濡れ、痛みがズキズキと思考を奪っていく。
これはやばい、と近くのログハウスへ飛び込む。
驚いた店主が、応急処置をしてくれた。
傷は大したことないものの、血液を拭き、ガーゼで覆う。ううう。
「カモメ」と「ウミネコ」の違い
https://mainichi.jp/articles/20141006/mul/00m/040/00800sc
カモメもウミネコも、ホントはそんなに凶暴な鳥ではないですが、こんなとき、「自分が痛いのは、鳥のせいだ」と思いますよね。
傷の原因は鳥であって、自分にはなんの落ち度もない。
そう考えます。
鳥さえいなければ、襲われてもないし、血も流れていない。これは、客観的事実です。
「傷を負わせたのは鳥」。
「傷を負ったのは自分」。
ここから2日後、あなたは同じ浜辺へまた訪れて、浜辺の鳥を、Amazonで買った火炎放射器で焼き尽くしたとしましょう。
どうです?
あなたの気持ちは、海鳥を焼き払ったことでスカッと、晴れるのかもしれません。
で、腕と頭の傷は、癒えましたか?
傷は、綺麗に治らず、まだ残ってますよね。
鳥を焼き払い、胸がスカーッとした瞬間、傷、治りました?
治りませんよね。なぜなら、「傷を負ったのは自分」だからです。
負わせたのは鳥ですが、その鳥に同じ傷を負わせたとしても、いやそれ以上の殺戮を加えたとしても、あなたの傷は治ったりしません。
あなたの体のペースに合わせて、あなたの自然治癒力にのみ従って、良くなっていくだけです。
なぜなら、「あなたのこと」、だからです。
怒りもそれと同じです。
どんな原因があろうと、たとえ「あいつが悪い」と決めつけることができても、「怒っているのは自分」なんです。
高速道路でスピードを出し、ものすごい荒い運転であなたを追い抜いていった車に怒って、あなたはアクセルを全開に踏み、追いかけて、凄まじいスピードで追いつき、「ざまあみろバカヤロが!」と悪態をついて追い抜き返したとしましょう。
減っているのはあなたの車のガソリンです。
相手には、なんの関係もない。
「いや、関係あるだろう、この怒りの原因は、あの車だし、あの鳥だし、あいつらさえいなければこんな怒りは起こらなかった」とあなたは言うでしょう。
それが、勘違いなんです。
怒っているのは自分です。
相手と、LANケーブルかなにかで繋がっているわけではない。
何か原因があったとしても、勝手に「怒る原子炉」を稼働させているのは自分です。
これを、切り離して考えられるかどうかなんです。
「あっ、今、自分が、怒っているんだ」と、冷静に見つめられるかどうかです。
またここで「だって感情は抑えられない」と言うのなら、それは開き直りです。
そうでなければ、精神の疾患です。
ちゃんとしたお医者さんにかかりましょう。
普通、怒りは日常的で、感情的で、当たり前のものとされています。
怒りの原因は溢れているし、真っ当に怒ることが、社会人としてある種正しい、とすら思われています。
全くの間違いだと思います。
別に、無茶苦茶なことをされたのに何も感じずにニコニコしていろ、と言っているのではありません。
感情に流されて、感情のいいなりになっているくせに、「怒りは正しい」などと偉そうな説教をするな、と言っているのです。
そのあと、どんな対応をするのか、どうやって生きていくのか、はまた別の話。
でも、「怒り」は、「自分が勝手にやっていること」と思うだけで、日常で怒る数は、半分以下にできると思います。
優しいとか、穏やかとか、関係ないです。
論理があるかどうかだけ。
実際に浜辺で鳥が攻撃してくるなんてことはまずないですが、「ムカッ」としたのは自分なんです。
相手が、ましてや動物が「どうぞ、ムカッとしてね」とやったわけではない。
よしんば相手に悪意があったとしても、その悪意に乗って、怒りを発動するのはおかしい。
この切り離し、この分別、この見方ができているかどうか。
この「怒り」を、勝手に湧いてくる自然なものとせず、それに飲み込まれず、見つめられるかどうか。
ここは、人としてどういう段階にいるかをすら、現してしまうと言えるかも知れません。
そんな気がしています。
決して難しいことではなく、「ああ、そうかも!」と、まずは思うだけです。
私は、今のところ、「ああ、そうかも!」とは思えています。
あなたも、そう思ってみてください。