「なんと綺麗な平城京」と覚えましたね。
710年は奈良の京(みやこ)、平城京。
そして
「鳴くよウグイス平安京」と覚えましたね。
794年は、京都の平安京。
この間、84年。
たった84年で、壮大な奈良の都は、巨大寺院をほとんど置いたままで、山城(やましろ。今の京都)へ移転しました。
遷都です。
「せんとくん」はそのイメージで近年、奈良を印象づけましたが、「せんとくん」は「せんとして来たくん(710)」でもあり、「せんとして行っちゃったくん(794)」でもあるのですね。
都を移る。
桓武天皇がどういう帝だったか、を知る必要があります。
大仏建立で有名な聖武天皇(即位724年)が作った奈良の平城京から、たった5代後の桓武天皇(即位781年)が引き払っています。
桓武天皇とは一体、どんなドテラい奴なのでしょうか。
桓武天皇
実はこの平安京遷都には、「王朝の交代があった説」があります。
王朝が変わるというのは、「帝が交代する」という意味ではないんですね。
どうやら称徳天皇(48代・女帝)で天武王朝は途絶え、光仁天皇(49代)で天智王朝が復活した、とみることができるといいます。
光仁天皇(白壁王)は即位時すでに62歳。当時としては高齢。
このままでは再び天武系は盛り返す可能性がある、と。
天智系・天武系と呼ばれ、いろんな歴史に関する本ではこの二人、兄弟ということになっています。
だけどどうやらそれはウソらしい。
公式には実の兄弟ということにしておかないと辻褄が合わないからそう書いてあるけれど、本当は違う、と。
兄弟なら、いくら皇位が移っても「系」と言うだけで、「王朝が交代した」とは言いませんからね。
その証拠が残っています。
光仁天皇の次に即位した時(天応元年)、桓武天皇は「郊祀(こうし)」という儀式を執り行っているのです。
「郊祀(こうし)」とは何でしょう。
日本における郊祀
https://ja.wikipedia.org/wiki/郊祀
ウィキペディアには
「新王朝」創業に擬(なぞら)え、
と書いてあります。
「郊祀」は、「その王朝の初代と天の神」を合わせて祀るのが習わしで、それなら本来は「神武天皇と天帝」でないとおかしいんです。
なのに桓武天皇は「光仁天皇と天帝」を祀っている。
つまり「光仁天皇からこの王朝は始まっております!」と宣言しているに等しい、ということになるんですね。
「王朝が変わった」と言える理由。
莫大な費用をかけて作られた平城京は、なぜ棄てられてしまったのか。
その理由は「王朝の交代」だったのです。
そしてもう一つ、平城京から長岡京を経て平安京に遷都した理由には、無実の罪をかぶって決死の断食を敢行し恨みを爆発させて憤死した、ある男に理由があると言われています。
大仏と大仏殿を建立してまで国家の安寧をはかった平城京は、国家規模の巨大事業であったにもかかわらずたった84年で、あっさり棄てられてしまいます。
どうして、大仏を持って行かなかったのか。
どうして、寺社を伴って行かなかったのか。
古代の人の考え方が、そこには色濃く反映しているようですね。
しかも現代に綿々と続く、日本人固有の考え方。
善くも悪くも、そのせいで日本人を日本人たらしめている、と言っても過言ではない、無形の風習。
面白いもので「建都○○年」と「遷都○○年」を祝う行事が、これからも奈良と京都で順々に行われます。
東京に遷都(厳密には遷都はしていない)するまでの一千年の間、帝をいただいていた王城の地であった京都。
シルクロードの終着地として、古代の日本の文化の生粋を決定づけた奈良。
今ちょうど、正倉院展をやっています。
なにより驚いたのは、今回で68回目を数える正倉院展の第一回は、昭和21年に行われたということでです。
敗戦の翌年。
奈良で宿泊。静かでよろしおす。