世の中はとにかく理不尽である。
なぜ世の中が理不尽なのかというと、もともと世の中というのは理不尽だからだ。
それでは理由になってないようにも見えるが、「世の中は理不尽であってはならない!」という勝手な思い込みがまずあるから、「世の中は理不尽である」という事実に対して、負の感情が強く生まれているのだ。
「理不尽があるなんて許せない!」と思うのはもちろん自由ではあるが、それは「地球に海があるなんて許せない!」と言っているのに似ている。「許す・許さない」や「許される・許されない」という尺度で計るものではそもそも無い、のが理不尽というものなのだ。
「理不尽」とは…
・「道理にかなわないこと」。
・筋の通っていない様子。
・因果関係が成立していない感じ。
・納得できない、正しくない状態。
・合理的じゃないやり方。
などを指す。
英語では「unreasonable」。
アン・リーズナブル。
昨今は「安い」ことをリーズナブルと呼ぶようになってしまった。
テレビは「バカ相手にやっております」を裏の使命としている媒体なので(それには理由がある)、こういう外来語の改変を平気でする。いや、自主的に改変しているのではなく流れに乗っかっているだけなのだ。
もちろん元は英語だが、カタカナ語としてそのままタレントがしゃべるまま、用法だけ覚える視聴者はなんら問題視しない。
リーズナブルが「安い」という意味なら、「unreasonable」は「高価」という意味になってしまうが、そんな意味はこの単語には一切ない。
直訳すれば「不合理」ということになるだろう。
「合理」も「道理」も「筋」も「因果」も「納得」も「reasonable」も、地球上で人間の中にしかない概念だ。人類しか「理」というものを発明し、感じ、重んじる生物はいない。
「理が尽くされない」と書く「理不尽」は、そもそもの「理がある」状態をよしとする人間だからこそ、存在すると感じてしまう概念だということだ。
ここで、「修行」というものを例に見てみよう。
修行というのは「理不尽を受け入れる期間」でもある。
どういうことか。
・師匠について修行をする
・厳しい修行時代を過ごす
というような語られ方をする「修行」だが、この期間、理不尽なことがとにかく次々に起こる。
たいてい修行を積んだ人は、言う。
「言ってることが前と違う」
「あの人とあの人で言ってることが違う」
「昨日と今日で言ってることが真逆になっている」
「それを指摘することは許されない」
など。
例えば…
Aの人が「これはここへ置け」と教えてくれた。
その場所に置いておくとBという人がやってきて「誰だこんなところへこれを置いたのは!こっちへ置け!」という。どちらが正しいかわからないから、さらに上の立場のCという人に尋ねる。すると「俺に聞きに来るな!」と怒鳴られる。
けっきょくどこへ置けばいいのかわからないので、Aさんがいる時はここに。Bさんがいる時はあそこに。と使い分けてなんとか事なきを得ることに成功した。
が、ある日Bさんが怒るであろう場所に置いてしまったことを忘れていたがなぜか怒られず、Aさんが「誰だこんなところへこれを置いたのは!」と怒り出した…。こんな理不尽なことがあろうか。
と、こんな具合だ。
確かにめちゃくちゃだ。
普通なら「さて、どうすればいいんだろうか」と考える。
こんなことがまかり通っていたら社会はめちゃくちゃになる。会社だって立ち行かない。
家族にだって見放されるだろう。
だから「どうにかしないといけない」と考えるのだ。
上の例で端的な解決への道は、上の立場のCという人に怒られるのを覚悟で再度詰め寄り、「ちゃんとした置き場所を決めてもらいたい。公正に、平等に、公平に、正当に、はっきりさせて欲しい」と願い出ることだろう。
その場所さえ決めれば公明正大に、誰であろうが置く場所が決まる。
怒る・怒られるの関係性が発動しなくなる。
言ってみれば「完璧なルール」が出来るのだ。
ルールに違反することが間違いだということは誰にでもわかるので、この件は永久に解決することとなる。誰であろうが「法の下の平等」で、ルールこそが正しいという状況になる。
修行期間には、こういう「解決」をしないことが多い。
なぜなら修行は「理不尽を受け入れる期間」だからだ。
解決する方法を考える。
解決できないことは放棄する。
後回しにする。
逃げる。
という選択をするというのが合理的に感じるが、修行を完遂することは出来ない。
何度も言うが、修行は「理不尽を受け入れる期間」なのだ。
解決策を講じてはいけない。
合理性を持ち込んではいけないのだ。
たとえそこに暴力が含まれていようと、だ(暴力を肯定しているわけではない)。
修行中は、「理不尽をそのままを受け入れること」が必要になる。
解決したことで「地頭が良い」などと誰かに褒められても、修行にはならないのだ。
何故なら、修行の先には独り立ちがある。
独り立ちを目指して修行をする。
修行期間と違い、教えてくれる人はいなくなる。
自分で考え、自分で答えを出していくしかない。
世の中にはそもそも理不尽が溢れている(地球に海があるのと同じように)ので、「理不尽を理不尽として受け止めてただただ耐える」経験がないと、「答えが出ない・解決策がないのでゲームオーバーです」と、降参するしかなくなる。
「理不尽なのでお手上げです」は、子供なら許されるが、独り立ちした人間には許されない。
そこから、どんな答えを見つけるかが重要になる。
嗚呼、理不尽というのは理不尽なのものなんだ、という諦めやスルースキルや大胆さ・バイタリティを持ち合わせていないと、理不尽を踏み台にしたオリジナルの策が打てないのだ。
同じような問題に対して、マニュアル化された解決策を身につけ素早く対処できるようになる。
それは「修行」ではない。「訓練」という。
訓練は、誰でも同じような対処法を学び、画一的で間違いのない方法を知る。
もちろん体に所作を叩き込むのは重要なことで、訓練は必須である。
修行には、訓練も含まれる。
しかし訓練=修行ではない。
間違いのない合理的な解決策を覚えるだけでは、個別に起こり得る、例外の嵐に対処できない。
修行で得た「理不尽を理不尽として受け止める謎のキャパシティ」があってこそ初めて、理解不能でイレギュラーなたくさんの事態に対し、身を捩(よじる)るようなオリジナリティのある、施策が打てるのである。
だからこそ修行期間には、師匠は理不尽をわざとふっかけるものだ。
それを受け止めるには、心が強くならなければならない。
人間は、問題が起こったら解決したくなる生き物だからだ。
不合理に耐えられない。
人間には理を重んじ、解を求め、それが成長につながると信じる気持ちがある。
しかし解決しようという努力は、理不尽の前では無力だ。
なにせ論理も節度も常識も何もない。
白を黒と教えられ、人前で黒だと披露したら裏で「お前が悪い」と怒られるのである。
解決しようにも糸口すら見つからない。
「修行」では、まず「理不尽に耐える精神」を構築する。
現代では修行をする人が少なく、「理不尽に無限に耐える強さ」を持つ人は減っているだろう。
理不尽をふっかけることを「パワハラ」だと言われたら、その価値観が勝る。
法律も当然、こんなの理不尽だ!と訴え出た側を守ってくれるだろう。
それで良い。それが正しい。
時代の流れとしても当然だ。
合理的であることを求められ、解決のスピード感こそが「賢さ」だとされる。
…などと言っていても仕方がない。
誰がどうなろうが、時代がどう変わろうが、理不尽はこの世に存在する。
この事実に変わりはない。
地球に海があり、山があり、谷があり、土があるように。
理不尽はなくならない。
未来永劫、変わることはない。
「理」がある限り、「理不尽」も必ず生まれるのだ。
理不尽に打ち勝つには、「まずすべてを理不尽として受け止める」行程が絶対に必要なのだ。
そして打ちひしがれ、怒りに震え、悲しみに倒れ、砂をつかんで立ち上がる時、いずれ来る理不尽の波に、アクロバティックな対処法を思いつく素地が出来上がる。
何が無駄で何が苦衷かは人それぞれだが、理不尽には理不尽なりの、効能がある。