デヴィッドボウイが亡くなってしまった(2016年1月10日)。
我らがスターは、最後に「★(BLACK STAR)」を残して、去って行かれた。
がんだったそうだ。
時代動かしたロック歌手=東西ドイツ統一にも影響―ボウイさん死去
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160111-00000119-jij-eurp
発売当日(2016年1月8日)にCDを手にしていた私は、「まだ、聴く感じじゃない…」と、なぜか目の前に置いて、パソコンに取り込んで、iPhoneでも聴けるようにした状態で、聴かずにいた。
どこかで、大音量で、独りで、瞑目して、沈着に聴きたい。
そう思っていた。
そうしているうちに、彼は69回目の誕生日を終えてすぐ、還らぬ人になった。
10年の空白を経て出されたアルバムから、3年も経たずに新作が!
そう思って意気込んでいたのに。
図らずも、こういう順番で、私の中に刻まれることになった。
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アルバム「The Next Day」(2013年)
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訃報(2016年)
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アルバム「★」(2016年)
この順番の違いは大きい。
私にとっては、意味が変わってしまったのだ。
ボウイの死を知ってから聴く「★」。
彼はこのアルバムについて、ほとんどなにも語っていないそうだ。
それをして「彼が創造した次なるアートフォーム(芸術形式)は?」と書かれる存在。
彼の脳内には、暗黒の泥濘にしか見えない異界へと続く穴が開いている。
彼にしか見えないが、その穴は「芸術そのもの」。
その芸術という異世界から「お前の脳を通して、芸術というものを現実世界に表現せよ」という命題が、出続けている。
それをボウイは、やり続けた。
だから我々には時に理解しがたい世界観を、彼は生きるように表現した。
その苦悩と孤独は誰にもわからないのだろう。
天才の懊悩。アーティストの逡巡。
いまだに、その解釈は世界の好事家を悩ませている。
「日常にありふれた出来事を歌詞にして多くの共感を得て、」みたいなことでチヤホヤされて「アーティスト」と呼ばれたりしている人ら、もたくさんいることは事実だけれど。
彼はそれらとは一線も二線も画す、としか言いようがない。
ボウイが表現しているように、芸術っていうのは、その奥底は怖いものなのだと思う。
通奏低音として流れる「異界との交流」の具現化。
それを、冷静に、落ち着いて、現世との折り合いを個人としてはつけながら模索した偉人。
若い頃のジギースターダストやアラジンセイン、または「ダイヤモンドの犬たち」の感じを、今でもイメージとして強烈に持っている人も多いだろう。
そういう人たちは「レッツダンス」以降の彼を「私のロマンティックなボウイはどこへ!?」と感じ、アメリカでの成功以降に知ったファンは昔の写真を見て「なんで眉毛なくておでこに金の丸描いてんの!?」と不思議がっていたのだろう。
だけど「普通じゃない人」なのは誰にでもわかる。
どれもこれも彼にとっては脳内へ直接くだる、芸術界からの指令を脳内で変換した結果のエンターテインメントだったのだ。
確かに、音楽界に天才はいる。
綺羅星のごとく、イギリスだけでもたくさんの才能あふれる人たちが。
エルトンジョンしかり、ポールマッカートニーしかり。
ああ、偶然にも、受勲している「サー」だ。
なんとボウイは、大英帝国勲章コマンダーと大英帝国騎士号の叙勲を、両方とも辞退している(2000年・2003年)。
なんて、かっこいいんだ、貴方は。
「★」が持つとてつもなくHUGEな意味とは。
しかしこのアルバム名(そして曲名)、
「★」。
これ、ただ単にブラックスター(黒い星)というだけの意味にとどまらない。
なぜなら。
私たちは今後、パソコンにキーボードでなにかを打ち込む時、および文章を読む時に、
★
を見かけたら、デヴィッドボウイ/「★」の曲(およびPV)を、思い出さずにはいられないからだ。
それは全世界、の人々にとっても同じはず。
パソコン上の、
いかなる言語においても
★
は、「星」や「STAR」であると同時に、
DAVID BOWIEの「★」という意味を持つことになる。
永久に、だ。
つまりボウイはこの、進んだネット社会において、永遠に続く「ボウイの痕跡」を、最期のアルバム(および曲)によって、残すことを選んだのだ。
デヴィッドボウイは、永久に燦然と光る、★になった。
永遠のスターに、最後に昇りつめた。
すごいことをやってのけた、すごい人だと、訃報に接してからずっと、少し震えている。
感動で。
みなさんはいかがだろうか。