ちょっとずつ、モノへの執着が小さくなってきているのを感じています。
もちろん大事な物はあるし、なんでも粗末にはしないように心がけたいと思ってはいます。
執着というのは、実は「その物自体へではなく、自分の物語への執着」だと思うんです。
「これは19◯◯年に、たった150個しか作られなかった…」ウンヌン。
「これは、自分が幼少時、大好きだったおじいちゃんが外国に行った時に買って来てくれて、そのおじいちゃんが亡くなる寸前に…」ウンヌン。
手元にある物には、大なり小なり、自分とのつながりのストーリーがあります。
毎日食べるものとか、自動販売機で買うデカビタにだって物語はあるはずですが、起承転結が早すぎて、そして回数が多すぎて、忘れるんですね。
それらを「小さな物語」と呼ぶことにしましょう。
さっき買ってきたコンビニのサンドイッチにも、「小さな物語」はあります。
対して。
「大きな物語」は忘れ得ません。
自分の人格すら形成するものとなります。
自分の性格や好みがその物によって補強されているという、情念に浸かっている認識になります。
わりと昔から「コレクションはやめよう」と決めてきました。
シリーズ物や限定品など、「お店に売っているものを並べるのはやめよう」と決めてきました。
ヤフオクを、初期から眺めすぎたのかもしれません。
「ここに売ってるってことは、どこかにあるってことだ。手元に引き寄せる必要はない。コレクションはやめよう」と決めたんです。
わざわざ決めなければならなかったのは、本当は「ハマったら怖い」からでした。
この場合の「ハマる」とは、もうそれに関するものは買わなければ気が済まなくなる状態になることを言います。
「ヲタク化」を自ら防いだ、ということになりますね。
中野ブロードウェイに行ってフィギュアのお店を覗くと、ドラゴンボール関連の商品がトコロセマシです。
等身大に近い物から(架空の漫画で等身大もクソもないとほんとは思ったりもしますが)、ボトルキャップや根付のようなものまで、大きさは様々。
それらを見て、「これはおかしい」と感じます。
大きさは世界観です。
あんな大きなフリーザに、あんな小さな悟空が勝てるわけがない…というくらいに世界観が違う。
まさにスケールが違うものが混ざっている、その感じには耐えられないのです。
「ハマる」とは、その違和感をもなんなく飲み込んで集めまくる状態を言うでしょう。
その違和感を物欲が、難なく乗り越えてしまう状態を言うのでしょう。
それを私は、異常だと感じてしまうので、最初から「コレクションはやめよう」と決めたんです。
そうすると、なぜか最初の一体、がもう欲しくなくなります。
とうぜん、その横並びが欲しくなる、ということもない。
必要性を感じない。
自転車もバイクもクルマも、1台あればいいのが普通でしょう。
あれもこれも乗れるわけではない、常に体はひとつなんだし。
それに似てるかもしれませんね。
じゃあフィギュア、1体だけならいいんじゃないの?と思うかも知れません。
ここからは別次元の話。
あらゆる物は、今ここにあるこの個体、が欲しかった訳ではないはず。
この個体が、別の物と入れ替わっても、今日、明日には気づかないかもしれない。
「この個体」は大量生産されたうちの1個なので、「この個体」に思い入れを持つことに意味を込めすぎると、それはもう「このフィギュアが欲しかった」とは別の、執着に取り憑かれていることになる。
人なら、「人であり、この人である」は密着していて絶対に同じ意味なので、かけがえのない存在として大切にするという感覚がわかりやすい。しかし大量商品であるフィギュアは、「フィギュアであり、この個体である」ことにあまり強い意味がない。
欲しかったのは「ドラゴンボールのフィギュア」という、『概念』なのかもしれません。
必要なモノは、いいモノが欲しいです。
でも「集めるために欲しい」は、物体としてその存在が大きすぎて、その容積分の意味を与えられず、苦しむことになります。
皆、その苦しみを苦しみと感じず、「癖(へき)」として取り込んで、ストレスのタネにしてしまっているような気すら、してくるのです。