比企能員というラッキーマン
比企能員(ひきよしかず)は、比企尼(ひきのあま)と呼ばれた女性の甥だった。
が、猶子となって家督を継ぐ立場になった。
比企尼の夫・比企掃部允(ひきかもんのじょう)は武蔵国・比企郡の代官で、比企郡は今の埼玉県の(地理的)中心部であり、滑川町・嵐山町・小川町などを含む。
とは言え、役務としては本拠地を離れ、京都で源氏に従う存在だった。
源頼朝(みなもとのよりとも)が保元の乱で父と共に戦いに敗れて流されるとともに、東国へ移動して来たらしい。それくらいの関係性の家人たちは、勝利した平清盛(たいらのきよもり)にとっては罰するべき・滅するべき対象ではなかったのかも知れない。
比企氏は豊かな経済事情だったのか伊豆に流されてきた源頼朝に対し、何の将来的な保証もないのに20年間、支援をし続けた。20年経って源頼朝が挙兵ししかもそれが大成功したから良いものの、「伊豆の流刑おじさん」で人生が終わっていた可能性もかなりあるので、源氏に仕えていたとは言え、人間的に恩義を重んじる、あったと言えるのか。
大っぴらで財力を蓄えるレベルの支援ならさすがに都の平家が許すわけがないので、比企氏の支援は慎ましやかな、だが品ある生活には欠かせない程度のものだったのだろう。
しかし比企尼による直接・間接の支援が無かったら、源頼朝の伊豆での生活はかなりみすぼらしい、惨めなものだったに違いない。それだけに挙兵成功後、比企氏への特別な扱いは他に類を見ないものとなった。
源義経(みなもとのよしつね)征伐を含める「奥州攻め」では北陸大将軍となり、北陸ルートを統括する立場に任命された。よほど源頼朝に信頼されていたことがわかる。
ちなみに北陸ルートは計画された3ルートのうちの一つで、他の総大将はそれぞれ「源頼朝(大手軍)」、「千葉常胤(ちばつねたね・東海道軍)」である。
権力の絶頂へ
比企能員の権勢、そして未来への期待は、源頼朝に長男・源頼家(みなもとのよりいえ)が誕生したことで絶頂期を迎える。
比企能員の妻は源頼家の乳母となり、彼は乳母父となった。
比企能員の娘である若狭局(わかさのつぼね)はのちに源頼家の正妻となり、一幡(いちまん)を生む。
源頼朝→源頼朝の嫡男→その嫡男、とがっちり主筋を掴まえた比企能員は、外祖父として鎌倉幕府内でトップの権力を得られる立場にあった。メインとなる主家に外祖父(嫁の父)として権力を振るうというのは、平安貴族・藤原家もみんなやっていることで、伝統的な権力上昇の手法だ。
しかしそうなると、北条氏とは主導権争いにおいて、かなりぶつかってしまう立場となる。
すでに北条氏としては源頼朝の妻に北条政子(ほうじょうまさこ)。
当主の北条時政は、権力の中枢として外祖父になっている。
そこに「次世代の外祖父」として比企能員が台頭してきた。
次男の北条ヨシトキは、源頼朝の覚えめでたき存在になっているとは言えまだ若い。
北条ヨシトキの成長を待っていては、鎌倉幕府の実質的権力者は比企氏になってゆく。
ここで運命の大転換が起こった。
1198年に一幡は生まれたが、なんとその翌年1199年に、源頼朝が急死してしまうのだ。
北条と比企、二代巨頭で幕府のパワーバランスを取ろうと考えていたフシのある初代征夷大将軍が、あっさり死んでしまった。馬から落ちて死んだのか、死ぬような状態だから馬から落ちたのか、は判然としない。
正史扱いされている『吾妻鏡』には、源頼朝の死の前後三年間の記述がない。
かなり重要な時期であり最重要人物であり、記述としても何度目かのクライマックスであるはずの、源頼朝の死が書かれた部分がない。
おそらく当初はあったのだが、都合が悪いので「無いことにされた」のだと思う。
誰にとって都合が悪いのか。
それは、のちに権力を握った北条氏にとって、である。
先ほど書いたように、源頼朝はおそらく、北条・比企の2大巨頭制を考えていたのだと思う。
初代の外祖父が北条時政。
2代目の外祖父が比企能員。
3代目の外祖父はまた北条氏から。
4代目は比企氏から。
将軍を輔弼する役割を2家から排出し、その血筋を名家として固め、朝廷における「五摂家」のような扱いにして幕府運営を盤石なものにしていく、という計画があったのではなかろうか。
そのプランが『吾妻鏡』に掲載されることは、のちの北条氏にとってはとてもとても都合の悪いことだった。
なぜなら、北条氏がそのヴィジョンを叩き潰したからである。
「比企能員の変」と呼ばれる争いは、1203年に起こった。
源頼朝急逝から4年も経っていない。
13人の合議制など実質的にはなんら存在しなかったことを証明・象徴するような、「最良の解決策は殺すこと」という鎌倉武士の面目躍如な、現代的視点から見ればメチャクチャなやり方である。
『吾妻鏡』は北条氏史観なので「そういう感じ」で書いてあるのだ。
まず一幡(比企能員の孫)が将軍を継承してはならない、という不吉なお告げがあった。
これがいやらしいネタフリになっている。
御神託は「比企サイドの権力継承は危うい」とおっしゃっている、ということを匂わせて、なんだか北条側の悪意を誤魔化そうとしているように取れる。
そして「源頼家、御乱心」モードへ。
2代目将軍を廃し、3代目源実朝(北条サイド)の将軍継承へ繋げていくには、2代目はアタマがおかしくなった、としなければならない。
源頼家は叔父である阿野全成を殺し、横暴で身勝手な振る舞いを続ける。
神を汚したり不吉な兆候が現れていた、という記述を『吾妻鏡』はしている。
病に倒れる源頼家に対して「まぁ当然じゃない?」と後世の人間が思わせるムードが醸成されている。テレビドラマや歴史番組の説明は『吾妻鏡』に依拠しているので、だいたいこの流れだ。
源頼家が病床に…もう政権交代の手続きを始めます!という動きが「北条の企て」であると見抜いた比企能員は、源頼家をそそのかし、北条時政を殺す許可を得ようとした。源頼家にとって北条氏は「母の実家」なのであるが、その判断も冷静には出来なくなっていたのだ、と『吾妻鏡』は言いたいようだ。実際にどうだったかはわからない。なにせこの「病床での謀議」を、障子越しに盗み聞きしたのが当の北条政子だったというのだ。
そんなことってある??
将軍の寝間に出入りできる数少ない人物だとは言え。
娘であり初代将軍の正室である北条政子からそれを聞いた北条時政(ほうじょうときまさ)は、何食わぬ顔で比企能員を自邸に招いた。「薬師如来の供養会を行う」という大義名分を作り、現段階では比企能員も「何食わぬ顔で行かないと怪しまれる」という感じだったという。
比企能員はまだ、暗殺計画がバレてないと思っている。
家人もほとんど連れずに丸腰で現れた。
丸腰で現れたモノノフに対して「アッパレ武士の中の武士よ」、窮鳥懐に入れば猟師も殺さず、と酒席を開いて肝胆相照らす、なんていう武士道精神はこの時代の武士にはない。
「最良の解決策は殺すこと」なのである。
そんな高尚な精神性や義侠心を持ってるのは畠山重忠(はたけやましげただ)くらいだ。
おお非武装かラッキー、バカめ…とばかりにくびり殺してしまう。
これは鎌倉武士の粗暴さを、貴族的生活の中で忘れてしまったかも知れない比企能員の落ち度かも知れない。
いや、まさかこの段階でもう殺しに来るとは思わないだろう。
脅しの段階もなく、裏工作もせず、いきなり該当人物を殺す。
ここでもし招きに従わず、また行ったとしても警戒し武装し集団で訪れていたら、殺されていたのはどちらだったかわからない。すぐに戦闘になったはずだ。
当主が当然のように殺されてしまった比企一族は、その報を聞いて「小御所」(こごしょ)」に籠城をすることを決定。「小御所」はまさに御所で、3代目となるはずの一幡の屋敷。ところがこの籠城を「謀反である」と断じたのは北条政子だったという。「将軍の後家」の発言は重く、「全体的に比企氏が悪い」に決定。
それにしても、誰に対する謀反なのだろう。
北条政子が主体となるならば「幕府に対して」となるはずだが、もう一方の主体は次期将軍であり、その背後には現職の2代目がいるのである。
なぜこれを「謀反」と呼べるのか。
一幡って、北条政子の孫、ですよ?
源頼家はとうぜん実の息子。
この時点で北条政子は「平和的な解決なんて存在しない…」と、諦めを持っていたのだろう。彼女の、幕府という法人(?)として生きていく覚悟が、この辺りからも伺える。
歴史用語的には「乱」ではなく「変」と名付けられている。
主体の一つが「将軍側」だったことから、権力中枢を脅かす「乱」ではなく「変」なのだ。
ほんの数時間の間に幕府軍(北条が組織)が小御所を包囲し、将軍家正統継承者だったはずの一幡も炎の中で死亡(いったん逃げたあと北条ヨシトキ軍に捕縛・刺殺された説もある)。
幕府(北条政子/北条時政サイド)によって比企氏の所領などはすべて没収、比企サイドについていた者たちには処罰が行われ、逃げた者は追討されることに。
なんだか雰囲気的に「正義の北条が謀反を起こした比企のクーデターを鎮圧した」っていう感じに仕立て上げられている。死人に口無し、外祖父として次期鎌倉政権を支えようとしていた豪族・比企氏には弁明の余地さえ与えられず皆殺し。
行ってきました。
妙本寺
●宗派 日蓮宗
●山号寺号 長興山妙本寺
●建立 文応1年(1260)
●開山 日蓮聖人
●開基 比企大学三郎能本(ひきだいがくさぶろうよしもと)この寺一帯の谷を比企谷(ひきがやつ)といい、源頼朝の重臣・比企能員らの屋敷がありました。比企一族は二代将軍・頼家の後継者争いの際、北条氏を中心とした軍勢にこの地で滅ぼされました(比企の乱)。
その後、乱から逃れていた末子能本が、日蓮聖人に帰依し、一族の屋敷跡であるこの地に法華堂を建てました。これが妙本寺の始まりといわれています。
四月から八月にかけて、桜・カイドウ・シャガ・ノウゼンカズラなどが鮮やかな花をつけ、静かな境内を彩ります。
寺の門の前には、史跡碑が建てられている。
比企能員邸址
能員は頼朝の乳母比企禅尼の養子なるが
禅尼と共に此の地に住せり此の地比企ヶ
谷の名あるも之に基づく能員の女頼家の寵
を受け若狭局と称し子一幡を生む建仁三
年頼家病むや母政子関西の地頭職を分ち
て頼家の弟千幡に授けんとす能員之を憤
り蜜に北条氏を除かんと謀る謀漏れて郤
つて北条氏の為一族此の地に於て滅さる
大正十二年三月 鎌倉町青年団建
北条氏による「ライバル皆殺し作戦」はここからまだまだ続くわけだが、「比企能員の変」は北条政子をしっかり巻き込む形で、「外祖父だろうが殺すときは殺すの型」を見せつけた争乱だった。
善悪の価値判断への可否を800年後にするのは難しいが、殺してしまえば後でなんとでも言えるからこそ「北条時政を討とうという謀議をしていた悪人・謀反人」の汚名を着せて虐殺を正当化したと考えるのが妥当だと思う。そしてその正当化は、鎌倉幕府が「北条得宗家があったからこそ150年も続いたのだ」と言われればそれなりの説得力を得てしまうので成功してしまっているとさえ言える。
発掘は続くよ
同日、鎌倉生涯学習センターでは「第31回 鎌倉市遺跡調査・研究発表会」が行われており、入場無料とのことで行ってきた。
宅地造成やマンション建設の際、必ず遺跡調査が実施され、必ず何か出てくるのが古都の宿命。
とは言え鎌倉で、比企能員の時代のものが出てくるというのはかなり珍しいことらしい。
かなり深く掘らないとその時代の地層にまでは到達できず、よほどの歴史的価値・意義の高い場所での調査でもない限り、安全面を考慮すると発掘作業は鎌倉末期以降〜くらいからにならざるエオえないから、だ。
場所によっても、出てくるものにはかなり差がある。
鶴岡八幡宮の東側、御所があったエリアは少し地理的に高く、身分の高い武士が邸宅を構えていた。
そう言えば比企能員邸(現・妙本寺)も東側にある。
西側は少し低く、下層民や職人たちが慎ましやかな暮らしを営んでいたそうだ。
開発や現代人、未来人の生活改善がこのままストップするわけがないし、世代交代していく中で街は変化していく。史跡や歴史的な遺物は、よほどの根気と知力、そして財力がないと維持できるものではない。鎌倉だけでなく京都だろうが奈良だろうが古賀だろうが川越だろうが倉敷だろうが、歴史的景観など、100年後にはどうなっているかわかったものではない。呑べえ横丁ですら、高層マンションに建て替わるのである。それには国としての、歴史と文化を守るための余裕がなければならない。その土地の歴史に価値があるからこそ、その街が新たな価値を生み出す。さらに言えば、文献的・骨董的価値などなくても歴史的価値は存在するのだから、それを理解した見識のある人間が育っていなければ、街は守れないのだ。
御所さえ死ななければ
多くの御家人バトルロワイヤルは、源頼朝が急に死んだりしなければ起こらなかった。
もし源頼朝より北条時政が先に死んでいたら、北条家では穏便な北条ヨシトキに家督が移り、比企・北条の2大巨頭制はとりあえずうまく機能していたはずだ。
なによりも、急に源頼朝が死んだことが悪い。
そしてもっと混乱して壊滅していてもおかしくなかった鎌倉幕府を強引に操縦し、血で贖いながら無理やり豪快に立て直したのが北条氏なのだ。源頼朝さえいなければ源平の戦いなどなかったことにしてしまえばいい、という輩はまだまだ多勢いたはず。そもそも歴史的・血筋的にも平氏、という関東武士がやたら多い。
後世に無理やり嘘までついて正史を紡ごうとしたとて、北条氏だけが責められる筋はないのかも知れない。