『ジョジョの奇妙な冒険』は、1部と2部で、主人公が違った。
その後も主人公は交代した。
血筋という意味ではその後も3部、4部、さらに8部まで連綿と続いた。
「意志」の継承という大テーマで言えばその血統が切れ(たように見え)ても、名前などの連続性があって楽しかった。
しかしこれには連載当時、とても驚いた。
ジャンプで読んで、「ええっ」と驚いた記憶がある。
主人公が死ぬということにもびっくりした。
どんな物語でも主人公はいつも安定して、どんな苦境をもけっきょくは乗り越えて生き残り、勝ち残っていくというのが当たり前だと思っていたからだ。
感情移入する先は色々あるけれど、読者は、基本的に主人公の目線で物語の中を進む。
例えば悪に対峙する物語であったならば、読者は主人公と主観を共にするからこそ設定の中で起こるハプニングに怒れるし、悲しみを感じるし、乗り越えた時の達成感もある。
もちろん、悪のサイドに感情移入することもある。
しかし、それは生き残るであろう主人公の「安定した目線」があるからこそできることなのだろうと思う。
その「主たる目線」が消えてしまって、2つ目以降の感情移入が必要になる場合、観客は、器用にその意識の場所を移動させる。
前のは忘れる、のである。
天神山の“変態”性
「天神山」に出てくる「変チキの源助」という男。
多くの落語の中で、このキャラクターが一番好きだ。
髪の毛を「片方伸ばして片方剃っている」。
これだけで、時代や常識に逆らい「キ印」扱いされていることがわかる。
現代においても、なかなか奇抜な髪型に属するだろう。ましてやちょんまげを基調とし、丸坊主さえ「恥の象徴」とされた時代においては生活にすら支障が出るレベルのスタイルだと言える。仕事はわからない。正業についていないことは確かだ。
左右に白と紺との足袋を履き違え、ボロボロの着物の象徴「四季の着物」を身に纏う。
そんな「変チキ」が実は冷静で、孤独でありながら人より冷徹に周囲や物事を見ており、「わざと変を演じている人間」かもしれない、という描写がチラッと出てくる。
桜の季節に花見に向かう人に紛れて歩いているところ、声をかけられる変チキ。
「花見に行くんでっしゃろ?」
という声のかけ方に、変チキは過敏に反応する。
彼は「花見に…」と言われて即座に「いやぁ俺は墓見に行くのじゃ!」と切り返した。
ここ、録音を聞くとやりとりが早すぎて、最初から「墓」と決めてたようにすら聴こえるのだけれど、実は違う。
ひねくれ者で、孤独を愛す変チキは、「花見」というキーワードが出た途端、照れもあってか「墓見」と言い返してしまうのだ。言ってみれば変人の面目躍如。当たり前の行動を取ろうとしていることを指摘され、照れと矜持から、反発してしまうのだ。
その証拠に、そう言って離れてから「待てよ…」と今度は本当に、花見から墓見に切り替える。ほんとに切り替えてしまうからこその変チキということになるが、決して、最初から奇異なる行動を取ろうとする男ではない、頭は正常で冷静、というのがポイントなのだ。
そう考えると、周りを引かせてしまう「オマル弁当とシビン酒」も、本当かどうかはわからない。まるでそういう風に「うへええ!」と周りを辟易させてしまうことが、自分のキャラクターと尊厳を守る方法だと、知っているかのようなのだ。
墓場で偶然拾ってしまった骸骨が、見知らぬ昔の若い女性のもので、酒を手向けて供養してしまったばかりに夜、自宅にその幽霊が現れる。なんと嫁にしてくれという。
驚愕の展開に変チキもじゅうぶん驚くのだが、ここでもまた「待てよ…」という冷静な分析が現れる。「俺も変チキやな…まぁええか」と、この幽霊からの申し出を受け入れる。決して、衝動的に無思慮に突き進むわけではないのだ。
この「変であることを受け入れている姿勢」が、とても好きだ。
変人であること、周りから浮いていること、孤独であることを、手前の責任のみにおいて甘受している。こうでしか生きられない悲しみや哀愁すら感じさせる。周りはただ「あれは変人だよ」と罵り、嘲るだろう。しかし彼の中には信念がある。孤独を受け入れる、人生への深い洞察がある。
落語ではやりとりがスムースすぎて、この彼の悲哀が少し感じられないのが惜しいなといつも思う。
ついに入れ替わる主人公
そして、噺は衝撃的に展開する。
この「髑髏→幽霊→祝言」ラインに自分も乗りたいと、隣に住む安兵衛がやってくる。
まぁ、まだ(骸骨、一個くらい)あるんじゃないの?という変チキのテキトーな返答に、よし俺も!と勇んで同じ寺へ向かう。
ここで、もう変チキの源助は一切出てこなくなるのだ。
主人公が、完全に交代する。
確かに、違う噺にするには短すぎる。
その点は「骨つり(野晒し)」と構造は同じだ。
どうしても2人必要な噺ではあるが、あの思い入れのあった変チキが、強烈キャラだからこそ成り立った驚愕の「髑髏→幽霊→祝言」ラインの主人公が、もうまったく関係なくなってしまう。
セカンドチャプターは安兵衛の主観で物事が進み、不思議なお話(「蘆屋道満大内鑑」がモチーフ)で締め括られる。
「妖狐→祝言」という進み方になる。
モチーフとなった「蘆屋道満大内鑑」はキツネがやってきて子をなしたのち、出自がバレて出ていく…という、陰陽師・安倍晴明にまつわる物語なのである。
「蘆屋道満大内鑑」の主人公・安倍保名は現在の大阪市阿倍野区の人。
「天神山」で安兵衛は「安居の天神さん」の森で狐と出会うが、前半の変チキの源助が骸骨を拾ったのは一心寺というお寺である。一心寺と「安居の天神さん」は向かい合わせの関係にある。火葬であるはずの仏教寺院でなぜ骸骨が…と思うところはあるが、時代的になんらかの事情で火葬せず、土葬したパターンだったのだろう。
安兵衛に主人公がスイッチしてからは、前半に負けない(短いけど)ファンタジックな終盤に向かうので、聴いているものはすっかり変チキを忘れてしまう。
ここも、あの男の哀愁をさらに増幅させている要因のように感じる。
変チキは、後半に出てくる隣家の男の幸せな時間にすら介入しない。
その後の人生も、皆目不明なままである。
だけどどこかで変わらず「あんなのは怖いよ。変人だよ。」などと罵られながら、彼は自分らしく、自分の信念を守りながら、じゅうぶんにひねくれながら、淡々と生きているのだろう。
なぜだか、こういう連中に共感を覚える。