流刑になった天子
鎌倉幕府回vol.0に出てきました(31:47 ★根拠がわからない島流し)部分ですが、「なんで上皇を島流しになんかできるんだ!?」という不思議さ、納得できないところがまだ、すごくあります。
承久の乱が勃発し、北条ヨシトキ追討を企て、鎌倉軍と激突する京都軍を組織した後鳥羽上皇は(隠岐島)・順徳上皇(は佐渡島)へ流罪に。ほぼ関係ないけど土御門上皇は(土佐国)へ、自ら赴きました。
上皇は、天皇を退位した人。
院政が進んでいた平安末期、上皇は、実質的に政治を取り仕切ってる人です。
誰も上皇に勝手に、政治を動かすことはできない。
政治どころか、大袈裟に言えば「宇宙の中心」みたいな感覚もあったかもしれません。
今みたいに、どんなに偉い人にでも法律が適用されるような時代では、ないんです。
天皇や上皇が縛られるのは有職や故実であって、歴史や伝統のみであって、法律ではない。
西暦700年に制定された「大宝律令」は、中央集権のために、天皇を中心とした政治のために、貴族たちをコントロールするためのものです。
天皇・上皇には、その束縛は至らない。
ましてや「天皇・上皇が武力を持って幕府転覆を図った場合の罰則」なんてものが条項にあるはずもなく、もしそんな事態になったら、すべてが前代未聞の、前例なしで進んでいきます。
三上皇が流罪になった、と書きましたが「法律で流罪と決められてたから流罪」ではなく、「殺すわけにはいかないので、流すしかない」みたいな、場当たり的な処置だったように思います。
国家転覆罪(内乱罪)は、首謀者は現在でも死刑(または無期禁錮)です。
はっきりとした武力を結集して戦ったとなると平安時代ですから、普通なら死罪。斬罪。討伐=死罪です。罪を法律に照らし合わせて…とかじゃなくて、殺すことと現在の「逮捕」が同じ意味くらい。
いくら武力蜂起→鎮圧の流れでも、さすが上皇を「斬首」というわけにはいかないんですね。
承久の乱は後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒す、という名目で行われたと言われてましたが(今でも言われてるけど)、実は幕府そのものではなく、専横を極める執権・北条ヨシトキだけをターゲットにしてた。だけど北条ヨシトキ・政子は、「これを幕府の喧嘩として受けたれい」と、山守義雄みたいなことを言い出したのです(仁義なき戦い 代理戦争)。
でも、だからと言って「わが鎌倉幕府は、後鳥羽上皇を討ち倒す!」という目的を持ったわけではありません。それは無理。そんなことが許されるわけがない、という常識が、世の中にはあったんですね。
倒すべきは君側の奸(くんそくのかん)。
帝王の横で、嘘ついておだてて君主を操り、悪い方向へ導こうとする家臣。
これらを討って、正常な政治を取り戻す!!という大義名分で、鎌倉軍は進発します。
けっきょく京都をあっさり制した鎌倉軍に、後鳥羽は「わかった。悪い奴らがいてさぁ。まぁこれからは幕府の言うこと聞くから、さ」と、当然のように責任を逃れます。
多芸・多能で武人としての側面すらあった天才帝王・後鳥羽も、「私が全面的な責任者であるから、私の首を討つが良い」とは言わないんですね。
乱に加わり、帝に加担した貴族は総入れ替え。
後鳥羽も、望みはあったものの、京に再び戻ることはありませんでした。
ではなぜ、配流先がそれぞれ隠岐島・佐渡島・土佐なのか。
実は上に出てきた『大宝律令』には「格式」と呼ばれる施行細則があり、その一つ「延喜式」に、「遠流規定」があります。
流刑には「近い・中くらい・遠い」のレベルがあり、一番遠い「遠」の規定には「伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土佐」の六ケ国が記されています。
これがそれぞれ、援用されたということなんでしょうか。
「よみがえる承久の乱 後鳥羽上皇vs鎌倉北条氏」展の図録に寄せられた、石野浩司(聖咒)氏の考察によると、同じ「延喜式」にある「灘祭文」に注目しています。
儺祭文は、毎年十二月の最終日(晦日)に陰陽師が音読するもの。
そこに「鬼やらい(節分の鬼は外の原型)」が出てきます。
「鬼やらい」は「神遷し」でもあるので、それがなんとなく適用されたのではないか、と。
崇徳天皇の怨霊化の記憶も新しかった時代、強力な怨霊になってしまいかねないやんごとなき方々をを、罪に落として罰を与えるわけですから、最初から「鬼神」として、「流す&祀る」みたいな方向で進められたのではないか、と。
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やはり法律の外にいる存在である上皇を、「刑罰」の流れで処していくだけ、っていうのは無理…というところがあったように思います。
ましてや、関東の武士にそんな器用なことができるわけがない。
同寄稿の中で石野氏は、やはり大江広元(おおえのひろもと)がフィクサーとして活躍したのではないか、とされています。
そう言えば源頼朝が流されたのも伊豆。
流刑としては、一番重かったんですね。
現代からすれば京都から伊豆とか高知に移動させられることのどこが罰なんだ?っていう感じがしますよね。実際、当時も在地領主はそこで生活してるし、農民もたくさんいます。
世界の中心・京都に住まう平安貴族の距離感・世界観が、そこに垣間見えるような気がします。
上皇を罰するなんてというのはそんな、当時の人にしてみれば「宇宙に行く」に近いような、やり方も可能性もまったく想像外にある、驚天動地の出来事ですから、執行する方も「これ、ほんとに大丈夫か!?」と思いながらやってたはずなんですよね。
京都方についた武士たちはそれぞれ、捕らえられて罰を受けます。
罰と言ったって、「鎌倉幕府に逆らった罪」が最初から決まってるわけではないので、しっかりした裁判があるわけでなし、申し開きができるわけでなし、なんで悪なのか/どれくらい悪なのか、もけっこう曖昧なまま、「なんとなくそういう感じでいきます!」みたいな、ある意味適当な、現場まかせ的な感じで進んでいくんですね。
うちの主人がそう言ってるのでそういうことです、っていう。
重責を担う貴族や血縁、特別な理由がある人はそれぞれ幕府要人によって直々に免責されたりもしましたが、鎌倉に引っ立てられる途中で「なんとなく殺されてる」人も多かったはずです。
連行する方も「まぁ罪人だし謀反人だし、このへんでいいだろう」みたいな感覚で、勝手に殺したりしてたはず。
これも、前代未聞の「上皇 vs 幕府」という未体験の図式での戦いの結果なので、かつての常識だった「戦争の後はもう、わりと勝手しても許される。敗者の物を奪うのは権利」を、武士たちがフツーに適用してるとしか思えません。
つまり上から下まで、「大した根拠なく、思い切ってやってる」っていうことですね。
さすがに行政組織として、承久の乱後には鎌倉幕府の規模も大きくなってくるし、その時その時の常識と貫目(あの人が言うから聞いておこう、みたいな感覚)だけでは裁ききれないという事で、ちゃんとした決まり『御成敗式目(ごせいばいしきもく)』が作られることになるんですね。
承久の乱からは10年くらい経って。
だけど『御成敗式目』の 第十六条には「承久兵亂時沒收地事」があり、第十七条には「同時合戰罪過父子各別事」の項目があります。
第十六条の「承久兵亂時沒收地事」は、承久の乱で京都側についた人々の所領について、です。
もちろん、幕府に手向かった人は罰、ということになるんですけど、一族郎党全員斬首、となると実質的に土地を支配してそこの裁量する人が皆無になってしまうので、その辺はちょっと調べてちゃんとしていこう、っていうことですね。
第十七条の「同時合戰罪過父子各別事」は、親子で分かれて戦った一族があったとしても、鎌倉方についた人は連帯責任とか、無いから!っていうことですね。それぞれで考えるから!っていう。
鎌倉武士が京都でお役目を果たし、時の流れで仕方なく、京都方につくことになった…という人もいたりしました。
親は鎌倉・子は京都。
どちらかが残れば一族は存続できる…というような、当時の武家の常識も、そこには感じられますね。
思えば保元の乱では源義朝は父・源為義を、平清盛は叔父の平忠正を、自ら殺しています。
三浦義村も、承久の乱では弟、三浦胤義(みうらたねよし)を征伐しています。
三浦胤義はあの「和田合戦」では戦功を立てた人だったのに、鎌倉にいた子供たちまで処刑。
三浦半島・三浦一族を守るためには、絶対に幕府側・兄側・鎌倉側につくべきだった三浦胤義。
だけど京都にいる間に、がぜん「京都サイドの人間」になってしまうんですね。
まさか、一族を裏切るほどの恨みを個人的に抱えてたりしたのか…。
ともかく承久の乱後、なんとなく続いてきてた武士としての常識・戦時の習慣が、だんだん明文化されてまとめられ、新しい文化が形成されていく時代になったんですね。
逆に言えば「御成敗式目」が制定される10年間、世の中には承久の乱から発生した諸問題が、まだまだたくさんあった、ということでもありますよね。そして「忘れるなよ」という意味もあったでしょう。
当然のごとく神あつかいで、宇宙の真理のごとく神秘でアンタッチャブルだった天皇・上皇・朝廷というものに対して、「あれ?なんとかなるんじゃないの?武力って。」という発想の大転換が起こったとも言えます。
これは、「お上と貴族と、それ以外」みたいな乱暴な世界観から、権利を持つ層が広がったという意味もあるわけで、13世紀といえばヨーロッパでは十字軍、ユーラシアでは大モンゴル帝国、っていう時代ですけれど、日本もだんだん、それらしい感じになっていく…ということですね。
ちなみのその大モンゴル帝国(元)が攻めてくるのは文永11(1274)年、承久の乱の53年後です。