オトコラシク
「男らしく、女らしく」は、なんらかの局面において利用される限定的で曖昧なレギュレーションに過ぎない。火葬場で焼かれ灰になりかける時、人は「男らしく、女らしく」に何の意味も求めない。限られた社会生活の中で、そして地域的歴史的経緯の中で、受益者が「その方がよりメリットが多い」から選び取ってきた作法に過ぎない。時代によって「らしさ」は変化する。新たに生まれた道具や便利さによってもそれは変化する。それは進歩や進化ではない。ただ変化するだけである。生まれた時から変化は絶えず起こっているので、変化後に対応できるかどうかは個々人の柔軟性と理性にかかっている。「古いものが良い・悪い/新しいものが良い・悪い」ではなく、変化すること自体の善し悪しにまず着目し、自分自身の感情と社会全体とを整理して、俯瞰して見ることが必要である。
ボーハンカメラ
防犯カメラを設置すると犯罪は減る。しかしそれはカメラそのものの性能ではない。当たり前すぎて誰も言わないが、カメラの両脇から現行犯に向けて殺人ビームが発射され肉体を瞬時に殲滅する、というのが性能として一番効力が高そうだが、これは「犯人殲滅カメラ」であって「防犯」カメラではない。録画されていること、記録に残ってしまうことがちょっとした犯罪について「やめておこう」という気にさせる。それはポイ捨てであったり唾をはいたり、というところにも及ぶ。ほんの少しの「魔が刺す」という程度のことを抑止できるのだから、防犯カメラには感謝すべきだ。だがしょせん殺人ビームが出るわけではないから、逮捕拘留なんのその、という豪の者が現れると防犯カメラは無力だ。「録画が証拠になる」という暗黙の了解は何の役にも立たず、録画されながら犯罪行為が完遂してしまう。やはり「犯人殲滅カメラ」も登場した方が良いのかも知れない。
ムカシノジブン
昔の自分を思い出す時、大した感慨はないがそれよりも「今この瞬間も、昔の自分と呼べてしまう時が来る」という事実に愕然とする。恥ずかしい過去をそれなりに想起してうああああと声が出てしまいそうになるということが、もしかするとさらに時間をかけて、今後起こるかも知れない。いや、静かにそれは起こるだろう。記憶の曖昧さと共に、小さな宿命として受け入れていくしかないことだ。反省できることを思い出せたらまだマシな方で、おそらく思い出せもせず、反省も出来ず、衝動的過ぎたがゆえに繰り返すこともできないことが幸いだ、という過ちすらたくさんあるはずだ。慎重になって生きれば、または強い強制力の下で暮らせば別だったろうが、自由であればあるほど、人間は後でうあああと声が出そうになるような、恥ずかしい思いを抱えて生きていくものなのだろうし、自由とはそういうものだ。
キョウミノナイハナシ
興味のないジャンルの話を延々とされることはよくある。ほー、とかおおお、とかなるほどーとかそうなんですねとか、相槌にも限界があり、そのバリエーションが尽きるとタイミングで自動的に返事してることがバレる。内容を脳内に留めるつもりが最初からないから変なところに集中力が増してしまい、話している人の顔の表面の皮膚感などを観察してしまう。だが「興味ない?つまんない?」と言わせてしまっては申し訳ない。そうならないためには、意識を集める場所を変えることが有用だ。「この人がこの話をして、感情が動いたのはなぜだろう。いつだろう」という、話者の感情に注目するのだ。どんなジャンルでも、感情が動きときめきを発し面白さを感じることには変わりがない。そこに、こちらが共感できるチャンスが潜んでいる。なので、感情の動きがワンパターンな人の話ほど、興味がわかないものはない。
アクセルトブレーキ
アクセルとブレーキを踏み間違える事故を防ぐのは、原理的に不可能である。踏み間違えてしまった後の事故の規模を最小限に抑える、ということにしか技術は到達できない。高井田(大阪)と高井戸(東京)、伊丹(大阪)と熱海(静岡)、青梅(東京)と青海(東京)を間違わないようにと言われても間違って行ってしまう人がいるのに似ている。音すら似ていないアクセルとブレーキを踏み間違えるのは「隣に並んでいるからだ」という指摘もあるだろう。ではアクセルを手元に、ブレーキを足元に配置したとして、それを間違えない保証はあるだろうか。いや、「ア」クセル/「ア」しもと、にした方が覚えやすいかも知れない。しかし片足でしか操作しない、教習所でしっかり習った、アクションも平易な、何十年も乗っている自動車において、「踏み間違える」という過ちを犯してしまうという重大さは、操作する人間の認知にこそ比重が大きいので、完全には撲滅などできようはずがないのだ。「完全」でない自動運転が導入されても、それは変わらない。
カレーアジトチーズアジ(トコーヒーアジ)
少しだけ困る。「美味い保証」としてラインナップに並べられるカレー味とチーズ味だが、数十億の専門店があり、数百億の種類が売られているカレーとチーズを大雑把に「味」でくくられてしまうと、いったいどんなカレーなのか、どんなチーズなのかはいったん考えてはならないこと、とされてしまうかのようで戸惑う。だが最大公約数的に「美味い保証」として作られているわけだから、文句を言うのがおかしい。あんなに選んで、味の種類を利き分けることこそ上級者という風潮すらあるコーヒーだが、あっさり「コーヒー味」として売られているお菓子などを見ると、その潔さに胸がすく思いがする。そしてたまに、いろんなコーヒーを飲んでいるとその途中に「あのお菓子のコーヒー味の味がする…!」と感じることがある。あれは、あの味は、まったく適当ではなく本当にコーヒー味だったのだ…!と感動してしまい、少しだけ困る。