人が握ったおにぎり、なんてさ
「まったく由来のわからないおにぎりがそこにある。食べるor食べない?」なんていう設問は成立しない。多くの飲食店で出される料理は、誰が作ったかわからない。料理人が見えている店であっても、どんな環境か(ちゃんと手を洗ってるのかどうかなど)は確かめようがない。店舗に並んだ包装された食べ物も、どんな環境の工場でどんな衛生状態の人が作ったかなどわかろうはずもない。そこには「企業・店舗への信頼」や「共通しているはずの公衆衛生概念」があり、さらに「あまり詳しく考えないことにする」という生きる知恵がプラスされる。だから平気で食べている。「人が握ったおにぎりは食べられない」と平然と口にするヤツは冷酷で、無知で、考える力の弱い自分のことしか考えられないバカである。
嫌なことが続く、なんてさ
嫌なことは、実は続いていない。続くわけがない。本当に嫌なことだけが連続して続いたら人間はすぐに死ぬからだ。嘆けるほどに生きていられるのは、幸運の連続に見舞われているからこそだと言える。つまりこれは「運・不運」のカウント法の話なのだ。見知らぬ多額の借金を背負わされる。交通事故で大怪我をする。好きな人から別れを告げられる。嫌なことは目立つのでカウントしやすい。しかし飯が美味い。天気が良い。割り箸が綺麗に割れた。などの良いことは、なぜか平気で当たり前のこととしてスルーしてしまう。嫌なこと・良いこと、共にカウントは「1」である。焼き芋を買っているのではないので、大きいからカウントは5、というわけではない。共に「1」だ。勝手に良いことの連続にはアグラをかいて、悪いことだけをカウントして勝手に嘆いているだけなのだ。良いことがいかに続いているか、カウントしよう。
後悔、なんてさ
「後悔先に立たず」は言葉として時系列的に当たり前なので警句にはなり得ないようにも感じる。だが当たり前のことすぎて忘れてしまうだろうから、後で悔いないように目の前のことを一生懸命やれ、という意味なのだろうと思う。後悔は、しようとすればいくらでもできる。選択肢がいくらあろうと人生で同時に選べるのは常に1つだけなのだから、残りの選択肢についていろいろ想像して「ああすればよかったのか…くそう」と後悔することなど、いくらでも可能だ。ビュッフェ形式であろうが後悔は可能である。だが普通はそんなことはしない。意味がないと知っているからだ。後悔する人と後悔しない人の違いは、後悔そのものについて考えているかどうか、の差に過ぎない。
空耳アワー、なんてさ
「タモリ倶楽部」が終了するに伴い、空耳アワーだけでも存続できないかという声もあるという。あのコーナーの場合、原曲のアーティストや版元に著作権・原盤権があるのは承知だが「空耳」部分を考案したリスナーにも、著作権が発生するはずである。それともその部分の著作権は番組を制作するテレビ朝日に自動的に帰属することになるのだろうか。それらをすべてクリアしたBlu-ray BOXがあれば、アーティストの多様性から考えても全世界でヒットするような気が…すると一瞬思ったが「日本語に聞こえる」という極めて特殊な性質だったことを思い出した。「農協牛乳」よ永遠に。
若くいる秘訣、なんてさ
これは後悔に似ている。若くいたいと願うことは、後悔することに似ているからだ。若くいる人は、「若くいるかどうか」について考えていない。肌質や毛量や膝の痛みなどにも頓着しない。ただ自分として自分の生だけを生きている。「若さ」は「若くなさ」でもある。22歳は60歳より若いが、16歳よりは若くない。ただそれだけの、相対的なものに過ぎない。富士山はエベレストより圧倒的に低いが、変わらず日本一の標高であり、それ以上の霊峰としての意味をたたえている。自分の生に自信がなくなった時、「若さ」という外部基準に頼ろうとしてしまう。生き物は経年によって「若さ」から「若くなさ」へと自然に移行する。自然に移行することに外部基準を当てはめた「アンチエイジング」など、人生とは何の関係もない、見苦しいものだと言わざるを得ないだろう。