自立への助言、の感想
「自立した方が良い」「はいわかりました」「その後どうですか?」「自立しました」「それは良かった」で済むなら相談など要らない。「自立できない」には、自身の意思による「自立しない」のさらに奥にある「自立したくない」が隠れている場合すらある。それを無視した「自立する方が良いよ」は、アドバイスにはなっていないのだ。最短距離の、最初にして最大の一手を瞬時に提案できたという瞬間に、相談を受けた者は快楽を感じるものだ。「相談者は今すぐ能動的に行える最短解決法を聞きに来ているわけではない」というまどろっこしい、だけど避けては通れない段階を理解して欲しくて、今日もそこにいる。
アバター、の感想
新作「ウェイ・オブ・ウォーター」には、異星パンドラである必要がなにもない、アメリカ人の家族の物語と敵はいくら殲滅しても構わないといういつもの暴力があった。強烈な異文化を地球人が、折り合いをつけながら馴染んでいく過程が前作では描かれたが、今回の主役に「元・地球人」だった葛藤や面影はない。部族を守るためになら戦い、命を惜しまない勇気で敵を殺す戦士たちこそ正義、という理屈に貫かれていた。さらに、偏ったアメリカ人が抱く反捕鯨へのメッセージ。これらの内容を描くのに、「アバター」シリーズである必要がない。世界的大ヒットが約束された厳しい制約の中で、最大公約数的な筋道を選ぶしかなった苦衷をすら察した。第1作の衝撃がない分、ストーリーが重要だったはずだが、「アメリカ人と軍人と、どこか未開の地の部族」でも同じことができたのではないかと思ってしまった。
嘘つき、の感想
嘘をついてキャラを演じて周りを騙し、のしあがろうと画策する人間にろくなヤツはいない。大抵そのキャラ設定は、業界人をひっかけるために自分用に考えたものなのでツメが甘く深みもなく、だんだん「ボロが出る部分で笑いをとる」ということしかできなくなって崩壊する。基本的に若い女性をターゲットにビジネス上の食い物にしようという意図を持って次々にキャラを変えるものだから、そこには競合が必ずいて、薄っぺらな嘘つきはいずれ負ける。その上、自分だけで考え出した個性的なキャラのつもりだがやっぱりステレオタイプなよくある感じになってしまう。軽薄なメディアが軽薄に、軽薄な客のために取り上げることはあるが、拭い去れない偽物感と「なんとかうまく世渡りしてやろう」という小狡い意図は、見る人が見れば一発で見破られてしまう程度のものでしかない。
田舎暮らし、の感想
都会にいると、用事を済ませるのに結局1駅分くらいはゆうに歩くことがある。例えば東京の、ラフォーレ原宿前から、青山通りの交差点まで歩くと少し登り坂で10分くらいだ。距離にして1kmもない。この距離を「タクシーに乗ります」と言ったなら笑われてしまうだろう。田舎にいると、この距離・時間の場所に、歩いて移動することはない。もちろん用事の内容にもよるが、車で行けるなら必ず自動車で行く。田舎は都会との距離感や時間の感覚が違うのだ。老後、足腰が弱くなってもし自動車にも乗れなくなったら、大袈裟ではなく病院にも行けない。毎回救急車を呼ぶのか。そうでなくても、多くの人の助けを受けないと生活が難しい。自然豊かで街から離れていれば尚更だ。歳を取れば取るほど、都市機能が集約された都会が良いと思う。
男らしさ、の感想
過去、「らしさ」のことをこそ、「性」をつけて呼んでいたはずである。男には「男性」があり、当然、「らしさ」や「・のようなもの」は女にも存在する。最近は男そのものを「男性」と呼ぶので、「男らしさ」や「男・のようなもの」を指して「男性性」と言う。益荒男(ますらお)ぶりなどは、時代によって変わるものだ。時代から逃れられない人間は、その変化を受け入れるしかない。「旧き良き」と男らしさを語る人がいたら、それは「俺はなにも変えたくない。変わった環境こそが悪い」と言っているだけなので無視して良い。「新しき悪き」と言い出す輩は、いつも足を引っ張るだけの老害である。「男らしさ」から逃げたくなったり追い求めたくなったりした時、それは「自分という唯一無二の存在」への信念が揺らいでいるのかも知れない。らしさなど関係なく、自分はどうだ、に立ち返ることが必要になってくる。ライオンはオスでもメスでも、ただライオンだというだけで、高い「ライオン性」を誇示している。