腕時計、を何回も。
腕時計をする腕は最大で2本しかない(人間の場合)。なんとなく腕時計は左にするべきというマナーもあるようだ。よく使う利き腕の逆にしておく方が腕時計が傷つかずに済むという配慮から来るものらしい。または利き腕以外の動きはエレガントさを演出するから、というもっともらしい理由。仕事や行動パターンによっては利き腕にあった方が時間が確認しやすいという判断もあって、利き腕に装着している人もいる。時間を確認することが重要である場合を除き、腕時計には装飾・アクセサリー要素が強く、高価なものだと持ち歩く資産とも言えてしまうが昨今、バイタルブレスとしての役割が大きくなって来ている。「どうせつけるなら時間だけでなく心拍数や歩数などもカウントしてくれた方がいい」と判断する人が増えている。そうなると「アクセサリーとしての役割」は相対的に低くなり、医療機器としての必要性に負けてしまう。そんなに大事な機能が欲しいなら機器を身体に埋め込んで貰えばいいんじゃないかと思ったりもする。時間に関しては元来「腹時計」が備わっているわけだが。
送往迎来、を何回も。
「来るものを拒む」が「近づく人を選別する」であり「去るものを追う」が「引き留める」であるとするならば、「来るものを拒み、去るものを追う」というのは後腐れのある・気難しい・人付き合いの上で厄介な人、ということになる。少なからず流動性の中で「選別と慰留」があるのは生きていればわかるのに、このイメージ(来るもの拒まず去るもの追わず)がやたらすっきりとした処世術として便利に重宝されているのは、「そんなもの、実際にはない」からではないだろうか。これを口にする人はあっさりした、ライトで依存性が低く人当たり軽やかで切り替えが早い、という象徴として用いているようだが、「単なる嘘つき」である可能性も高い。
悟り、を何回も。
理解が深く気づきが多く、諭すのが上手な柔和な人、を指して「悟った人」「菩薩の○○」などという称号で呼ぶことがある。ちなみに菩薩は、まだ悟り切っていない修行中の身の者のことを指す。究極的な悟覚世界がどんなものかは修行の発端にさえついていない人間にとっては知る由もないが、宗教的に「悟った」とされている人物たちがみな、凄まじいほどの多幸感を持っていることはどうやら事実らしい。それは単なる「ハッピーバカ」という意味ではなく、その対極にある怒りや貪りという感情の処理(厳密にはそれが起こる前の処理)が滞りなく完璧に脳内で行えているということなのだろう。本当の悟りとは、生まれてからへばりついている「自分」という意識を完全に脱ぎ捨てすべてが、この世界にある機縁の中のほんのひとつまみの淀みに過ぎないと覚知することに成功し、その視点を永続的に維持している人のことを言うのかも知れない。
酒癖が悪い、を何回も。
「酒癖が悪い」で片付けられてきた単なる迷惑や準犯罪が、このままいつまで放置されていくのだろうかと暗鬱な気持ちになる。酒を飲んで記憶を失うような輩はそれらを「武勇伝」と理解しており、語り継がれるべき「すべらない話」だと思い違いをしている。それにリアクションすること自体を、讃えられていると錯覚してしまっている。本当に恥ずかしいことなら黙って隠しているはずだが、意気揚々と誇らしげに「酒の上での失敗談」を語る輩は、なんら反省せず酒のせいにして逃げを打っているのである。最近は「酒に適量なし」という研究結果もあったりして、アルコールの持つ、心臓に対する悪影響も懸念されているが、酒癖の悪い連中はそれら(心臓への負担)も「酒のせい」であり自分のせいではない。酒への依存はストレスのせいであり、ストレスは仕事のせいである。痴漢をする人間が「仕事のストレスで」という言い逃れを試みるのと同じように、酒癖の悪い人間はすべての同業者と、すべての酒造メーカーを侮辱しているのである。犯罪に飲酒要素が含まれたら、罪状は10倍にして良いと思う。
同じ相談を何回も。
複数回の同じ内容の相談をし、その間になんらアクションを起こさない人間に対して、相談を受け、アドバイスを与えた人間は歯痒く思う。「こうすれば改善する」という打開策を提示しているにも関わらず、一切の実践をしようとせずに同じ悩みを繰り続けている人がいる。こういう人らのことを、「アドバイス直結型」「解決策請負人」だと自認している頭の良い人たちは理解することが出来ない。その時点で、悩み相談を受ける資格などないのだと気付けない。頭が良く思いつきのスピードも早く、経験もあり成功までの筋道を論理的に考えることが出来るであれば、そういう相談者が本当に悩んでおりその割に今日何が出来て今日何をしたくないのか、まで考えてあげれば良いと思うのだが、結局は「自分の能力」に陶酔しているだけで、優しさのカケラもない。その割に「お悩み解決!」をしたいという欲求だけは肥大しており、被害者が増える。