あの「応仁の乱」のヒットでも有名な、日文研(国際日本文化研究センター)助教の呉座勇一氏が炎上し、そして叩かれていました。
女性研究者への暴言と中傷、とのことで、その経緯や顛末はそれぞれまとめてる人もいらっしゃるので、そちらを各々、一瞥していただくとして。
歴史学者の與那覇潤氏がその一連について、「論座」に寄稿してらっしゃいました。
呉座勇一氏のNHK大河ドラマ降板を憂う
https://webronza.asahi.com/national/articles/2021032600009.html
呉座氏が謝罪し、叩かれて、大河ドラマの考証を降りるという事態にまでなり、所属されている日文研がステートメントを出す、というあたりになって、
「鎌倉殿の13人」の時代考証を依頼していた歴史学者の呉座勇一氏より、自身のツイッター投稿の一部内容が不適切であった責任を取り、降板したいとの申し出がありました。番組制作サイドもその事実を確認し、降板していただくことにしました。
— 2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 (@nhk_kamakura13) March 23, 2021
国際日本文化研究センター教員の不適切発言について(※2021年3月26日追記)
https://topics.nichibun.ac.jp/pc1/ja/sheet/2021/03/24/s001/このたび、本センター教員が、私的に利用していたツイッターアカウントにおきまして、他者を傷つけ、研究者として到底容認されない発言を繰り返していたことが判明しました。
本センターは、それらが個人の表現の自由を逸脱した良識を欠く行為であると考えています。
今回の発言は、多様性を尊重する本センターの方針に著しく背く行為と判断したため、所長および副所長が当該教員に厳重な注意を行い、傷つけられた方々に対し誠実に謝罪するよう厳しく指導いたしました。
本件におきまして、ツイッター上の発言を目にして不快な思いを抱かれた方々、また直接に迷惑をこうむられた関係者の皆さまには、心より深くお詫び申し上げます。
本センターは、性別・国籍はもとよりいかなる差別も厳しく禁ずる組織であり、今後、引き続き経緯を精査し規則等に照らし適切な対処を行います。併せて教職員の私的利用も含めたSNS利用ガイドラインを早急に公開し教職員に周知徹底し、このような事態が二度と起こらないよう努めてまいります。
このたびの本センター教員による一連の不適切発言につき深くお詫び申し上げます。
令和3年3月24日
所長 井上 章一
【2021年3月26日追記】
「どんどん主語がデカくなっていく」恐怖も、如実に感じたりしたのでした。
組織と個人
基本的にはよく、Twitterのプロフィール欄に「ツイートは個人の見解であり所属する組織とか関係ありません」と自分で勝手に書いてる人がいるけれど、あれになんの意味があるんだろう、とは思ってました。
いくら自分で「組織とは関係ない」と勝手に断ったって、そこに書いた人は「その組織に所属する人」なんだから、そんなものが完全に峻別されるわけがないじゃないですか。
コカコーラに勤めてる人が家ではペプシ飲んでる、っていう程度のことなら、ぜんぜん問題ないわけです。
やはり、「ある程度」なんですよね。程度の問題。
所属する組織から「個人とは言え、そーゆーことをネットで書くのはどうかと思うよ」と言われたら、「個人の見解、そして熟慮の結果」として、ツイートするの止めるわけでしょ?
所属し、組織の名の下で仕事して、その結果で評価されてる場合、その結果から生じた利益を使用する際にだけ「組織は関係ありません」というのは、通らない時もあるよね〜っていう話で。「組織とは関係ない」とプロフィールに記して、その組織を誹謗中傷してても「関係ない」って思ってもらえるなんて、そんなことはないわけで。
たいていは「そういう感じではない」んですけど、組織に迷惑がかかる可能性は、内容によっては、考える必要はあるってことですよね。
今回の問題は、「ミソジニー」と呼ばれる思考(思想?)がらみで燃えてしまっている、というところです。
ミソジニーとは「女性嫌悪」「女性蔑視」と訳される言葉です。
なんと「三十路」とは関係ないんですって!!!
ギリシャ語の「女性」と「嫌悪」が合体してできている言葉なのだそうです。
いつ頃できた言葉なんでしょうね。
わからないけど、逆に「男性嫌悪」のことは「ミサンドリー」と呼ぶそうです。
「嫌悪」というよりは「蔑視」のニュアンスが強い、と考えた方がいいのでしょう。
歴史的に・宗教的に、女性が不当に(不当、なんて生やさしいものじゃないけど)扱われ低く見られ、差別されてきたことは明らかで、それぞれの時代には「まぁ、それはそういうものだから」と納得せざるを得ない状況だっただけで、「差別です」と今、言われたら差別以外の何ものでもないです。
ということは「女性蔑視」という価値観を口に出し文字にできるようになってから、この言葉(ミソジニー)は、出来たのかもしれませんね。
女性に対して差別的・抑圧的な時代には、「(特に庶民の)女性蔑視」という概念が存在しない、あるいは極端に希薄なのだから。
名前、はあったけど。
日本では文献に、貴族であっても女性の名前が記されていないことがものすごく多く、世界的に有名な「紫式部」も「清少納言」も、本名ではないんですね。
紫式部は「藤原為時の娘」であると言われているだけで、本名がわからない(香子じゃないか?という説はある)。
「式部」はお父さんが式部大丞という官職だったということでそう呼ばれていて、そこに、どうして「ムラサキ」がついたのかは、その理由すらよくわかっていないのです。
清少納言も、清原元輔の娘だったので「清」の字がついています。
この女性が「小納言」という官職に就いたということはないので、これもはっきりとした理由は、やっぱり謎なのだそうです。
通称として、「ほら、いつもムラサキの帽子かぶってる、ほらほら…」みたいな感じで、呼び名になったのかも。
悪い噂として「ほら、あの小納言にいつもしつこく言い寄ってるホレ…」みたいな感じで、呼び名になったのかも。
2010年代の日本において、有名ではあるし、何してる人かも知ってるけど、元谷芙美子さんのフルネームをすぐに言える人は、そう多くはないはず。
私たちは彼女を、「アパ社長」と呼んでるから。
現代に至るまで、女性の名前が記されないのは「女性の本名を呼ぶなどはあり得ないとんでもない行為」だった常識があるからで、それプラス、女性が政治の中心で活躍することなども同時に「あり得ない行為」だったことを示します。
蔑視ですらない価値観というか。それはマナーとして。もはやモラルとして。
日本の女性の参政権は、1946(昭和21)年まで、完全には認められてはきませんでした。
アメリカに戦争で負けて、初めて実現した。
ちなみに2020年8月、ベイルートの港でとんでもない爆発事故が起きたレバノンという国では、 今も女性にのみ「初等教育を受けた証明」が必要なのだそうです。
つまりその証明が無い場合、女性は教育を受けてないと見なされるということです。
逆に言えば「女性が初等教育を受けるには、男性とは違い、手続きが要る」ということでもあるんです。
レバノンは有力な宗派ごとに、国の政治権力を分散する体制になっていて、大統領はキリスト教(マロン派)から、首相はイスラム教スンナ派、国会議長はイスラム教シーア派から選ばれることになっています。
「なっている」というのはそういう風に憲法で規定されているとかじゃなくて、「慣例でそうなっている」という感じらしく、もうそれって「法律より宗教の方が強いよ!」と言っているようなものですね。
原理主義的なキリスト教・イスラム教にとって、「女性蔑視」は「当たり前すぎるくらいに当たり前。なぜなら神がそう決めてるから」な価値観なのでしょうから、昔ならいざ知らず、現代的な価値観が国の発展には必要不可欠である以上、その辺はいつまで経っても争いの種に、なるのでしょうね。
レバノンてそういう国です。
あの爆発も、「政治のせい」というのが国際社会の、見方です。
ローマ法王に、女性はなれないんです。
なんでなれないの?と言われると、教会としては“根拠”があるんでしょうけど…。
呉座勇一氏の“ミソジニー騒動”は、なんだかレバノンとか、キリスト教・イスラム教の女性差別問題と比べると、随分スケールの小さい、みみっちい「炎上」だなと思えてくるところがあります。
馬鹿らしくなってくる。
叩く、の自己喪失について。
糾弾された事象に接して謝罪し、声明を出すのは、そこに「反省」があるからでしょう。
匿名性のあるツール内において、実名で、名のある学者さんが誰かの中傷を嘲笑まじりにしていて、その的になってしまった人が嫌な気分になったり傷ついたりする以上、それは名誉だけでなく毀損・攻撃だと考えるのは当たり前のことで、それを指摘して、ご本人が反論したくなるのは当たり前ですよね。
この時点では、どちらが正しいとか正しくないとかは関係ない。
「中傷した方・された方」という立場があるだけ。
そこから、中傷の元になった意見や事実が正しいのか、つまりそれは中傷でなくクリティーク(批評)なのか、という問題が加算される。
中傷した側は、自分が正当な論理と確証を持って書いているのだとしたら、反論されようが何が起ころうが、正々堂々と、対処し続ければ良いでしょう。
中傷ではないんだ、と。
「炎上」なんて言われとしても、その火で肉を焼いて食えばいいんです。
もちろん、匿名性のあるツール内において、匿名の、大量発生したイナゴのごとき、礼すら失した語彙力の無いアカウントから幼稚な罵詈雑言を浴びせられ、勤め先にも無粋に電話攻勢を仕掛けてくる輩が増えたりしたら、これはもう恐怖を伴う実害と言えてしまうので、それをおさめるために謝罪(それが不本意であっても)、さらに降板(それが不本意であっても)、そして声明を出す(それが不本意であっても)は、正しい戦略と言えるでしょう。
仕事と家族の人生を賭けてまで、他人を揶揄したいってことは、ないはずですから。
そして「ミソジニー発言」は、居酒屋でボソボソ話し合っているだけでならいざ知らず、見える形で話題に出すのは、「叩かれる素材」として現今、恰好の新鮮さを提供することになる、と理解しなければなりません。
地球の人類には基本的に女性と男性しかいないので、そのどちらかがもう一方を「敵認定」してしまうと無限の不幸しか生まない気がするんですが、実際、あらゆる「性にまつわる問題の原因」は、「その性だから問題だ」ではなくて「その人の問題」のはずなんですよね。
例えば性犯罪は、「男性だから起こる」「女性だから被害がある」んじゃなくて、「そいつが悪い」わけでしょ。
「男性だから」は、拡大して怒りすぎなんですよね。
女性に遍(あまね)くある生理現象について語る…のと違って(それだって個人差は色々あるでしょうけど)、問題が起こる時は常に「属人性」の方が大きいはずだから。
いわゆる「主語を大きくする」は本当に危険で、「問題で食ってる人ら」にとっては常套の、「解決させない手段」なんですよね。
性差別問題で食ってる人ら(食おうとしてる人ら)は、この世に男性・女性がある限り、性にまつわる問題は消えないことを最初から知ってますから、常に「男性は」「女性というものは」という主語拡大ツールを持っている。
原発事故問題で食ってる人ら(食おうとしてる人ら)は、この世に原発と事故がある限り、原発にまつわる問題は消えないことを最初から知ってますから、常に「原発は」「放射能というものは」という主語拡大ツールを持っている。
その際たるものがテレビです。
テレビは、「問題が解決してもらっちゃ困る」メディアなんですよね。
モメてもいいし、解決してもいい。
売れてもいいし、落ちぶれてもいい。
話題になればそれでいいし、視聴率さえ取れれば、問題が解決しようが、一生泣き続ける人が出ようが、死人が増えようが、関係ないんです。
これは「メディア批判」ではなくて、「原理の説明」です。
「そういうもの」として接していないと、残念ながら、思考は奪われます。
今回、実はこのあたりで言いたいのは「叩く人ら」「擁護する人ら」について、なのです。
ネット上での「叩く」という行為とその感情の様子を見ていると、「叩く」に、それほどの根拠(憎悪や怒り)を持ってない感じが、そこここに見て取れるんです。
個人として、「心から憤慨してる人」と、「叩く側に立てるから、叩いてる人」がいる。
わがことではないけれど、叩けるものは叩いておく。
叩いてさえいれば、自分は叩かれたりしないから、という安心感が見える。
「自分は常に叩く側」という根拠の補強が、感情のまま意味なく叩くことでされていく。
そして「叩かない」を選ぶと、自動的に「擁護してる」と見なされてしまう短絡も、そこにはあります。
前掲の、與那覇潤氏の寄稿文ですら「擁護」として叩きのターゲットにされてたりするんです。
読んでる??最後までちゃんと読んだの???4画以上の漢字飛ばしてない???と言いたくなりますが、叩く側からすると「叩いてない=擁護」なんですね。
正義の剣を持ってるのに、それを抜いて振るわないのは不正義である、ということなんでしょうか。
ああ…ということはなんだかごちゃごちゃ書いてしまっている今回のこの記事も、そういう人らの目に入れば「擁護」に属す、ということになりますかね。いやいや、それはいくらなんでも解像度低すぎるでしょ…。
これがその、そこいらをウロウロしている歯のないおっさんがブツブツ路上で言ってたりしたら「ミソジニー発言だ!」という入り口では、叩かれてないはずなんですよね。
歴史学者たる著名な呉座氏であるがゆえに、言ってみれば「立派な人がそれを言うのはけしからん」みたいな、上に見える人を引きずり下ろす快感、が「叩く」行為には含まれているようにも、感じるのです。
成功者の凋落、
大富豪の破産、
人気者の左遷、
芸能人の不倫、
これら、嫉妬と羨望の入り混じった感情が、溜飲が下るがごとくに満たされるという下品で拙劣な娯楽に浸っている結果、なのかもしれません。
大富豪が破産しようが、大企業が倒産しようが、あなたには1円も入ってこないでしょう?
美男美女が離婚しようが、売れっ子が干されようが、あなたには誰も寄ってこないでしょう?
関係ないのに、なんでそんなに怒ってるのか。
「叩く」が表すもの
「叩く」というのは、単なる動詞に見えるけど、個人の行動をだけ、を表しているのではないんですね。
いわば「風潮に迎合する」ことをも、内包した言葉になっています。
ほら、例のほら、あの人、叩かれてたでしょ
なんて噂するとき、「叩かれてた」のは人間ですが、「叩いた」のは誰だか、わからない。
いや〜問題あったから、私、あの人のこと、叩いたんだよね〜
とは、あまり言わない。
なぜなら「叩く」には、匿名性の担保と、主体(意思)を追跡されない自信が含まれているから。
それに比べると「擁護」には比較的、それを行う個人の意思が感じられます。
意思の集合体となり、個人が消えた「叩く連合」からの攻撃を、「擁護」する人は自分自身として、具体的に行わなければならないから。
ネット上に「叩いている連合がある」ことに気づき、名札と社員証を外して合流し、その剣が太くなって、対象を完膚なきまでに潰す「叩く連合」。
泣くまでやめない暴力集会。
もしかして上のように
ほら、例のほら、あの人、叩かれてたでしょ
なんて、「叩く」という動詞を使ってる時点で、すでに同罪かもしれませんよ。
「フクロ叩きをする方に回るな」は個人的に、心のどこかに留めている言葉です。
どんな理由があっても、たとえその人が悪いとなっても、「フクロ叩き」には、断罪以上の意味がこもってしまうと思うからです。
罪を憎む以上の、人を憎む集団心理が発生する気がするんです。
ネット上で行われる「叩き」は、まさにそれでしょう。
ちゃんといちいち、「フクロ叩き」だと呼べばいいのかもしれません。
それなら、
いや〜問題あったから、私、あの人のこと、叩いたんだよね〜
ではなく
いや〜問題あったから、私、あの人の、フクロ叩きに参加したんだよね〜
と、認識して、自分の攻撃性を、しっかり認識しておくべきでしょう。
再度確認しておくと、
「叩かない=擁護」
ではないし、
「叩く=フクロ叩き」です。
加担したくなる気持ちは誰にでも潜在的にあるのでしょうけれど、その気持ちがわき起こり、その原因のラベルにもし、「正義」と書いてあったら、その時点でスマホを、池に投げ入れるべきではないでしょうか。
おそらく、10分くらい待てば、金のスマホと銀のスマホを持った神様が、「ズアァアア」みたいな音とともに現れてくれるはずです。