ぜんがん。
聞きなれない言葉ですね。
善願寺、とかありそう。
あった。
巨木に彫った「不動尊像」を特別公開 京都の善願寺
http://www.asahi.com/articles/ASJ4W6QNMJ4WPLZB01H.html
宇都宮にもあるんですね。
「善い願い」。
じゃあ「悪願/悪い願い」もあるってことかな。
願いって、たいてい「自分が善くなりたい」と念ずることでしょう。
悪くなっていきたい!!と願う人はそうそういないだろうから、願いはすべて「善願」だと思ってましたが、違うんでしょうか。
善願・悪願、と相対化されてしまうとわざわざ断る形の「善い願い」とは一体なんだろう、と考えざるをえませんね。
向上だったり、平癒だったり、成功だったり、繁盛だったり、安全だったり。
善い願いと、それ以外…。
自分の願望はすべからく「自分を善い方向へ導いてくだされ〜」なわけですから、「それ以外」となると「他人へ」対する願い、ってことになるのかも。
確かに「他人へ」となると「善い・悪い」という差を、つけることができる。
自分へはとうぜん、「善い」ばかりを願うのですから。
そんな願いを神社仏閣でしている人がそんなにいるとは思えませんが、
「あの人が不幸になりますように」
とか
「あの会社が潰れますように」
とか
「あのコンビがどうか売れませんように」
とか。
沈滞だったり悪化だったり失敗だったり凋落だったり危険だったり。
マイナス要素を祈願してる人っていうのは少数ながら、いそうです。
それはもはや「願い」ではなく「呪い」ですよね。
いわゆる「丑三つ時に藁人形」っていうやつ。
「願い」という概念が存在するように、「呪い」という概念も存在する。
「祈祷」という形式があるように、「呪詛」という形式もある。
古今や洋の東西を問わず、呪術は科学ではないと峻別されていながらも厳然と、現在も存在する。
呪いって怖いな、と、本当に思います。
別に、悪魔に生贄(イケニエ)とか、要らないんです。
特別な呪文とか召喚するための魔方陣、とかも要らないんです。
例えば「頑張れ!」が「願い」だとしたら、「怪我しろ〜、って思ってる人がここにいるよ〜」が呪い。
どちらかを、他人に言われたとしましょう。
これ、気になりますよ〜「呪い」の方は。
「自分に、怪我しろ〜って思ってる人がこの世に少なくとも、1人いる」という事実。
事実があるというだけで、「呪いの実在」を感じずにはいられない。
どこかに「自分の不幸を祈願している存在がある」ということを知ったら、知らなかった頃にはもう戻れませんから。
精神力で「あんなものは現実的ではない」と振り払わないと。
でも、頭の片隅に「怪我しろ〜」がこびりつく。
何らかの、精神的な瑕疵(かし)が、ほんの少しでもありそうな気がします。
それで本当に病気になったり怪我をしたりしたら、「呪い」は成立。
「悪願」を立てた人が成就、ってことになります。
しかし近年、よく言われているのは…
「脳は、主語を理解できない」。
これ、有効な考え方ですよね。
あのタイガーウッズは、ライバルが勝負を決するような重要なパットに挑戦する時、「失敗しろ!!」ではなく「入れ!!!」と願うそうです。
敵であっても「成功しろ〜!」と念じるんだそうです。
「アイツは失敗しろ〜!はずせ〜!」と願ったら、自分の脳は“アイツは”の部分を理解しない。
区別できないんですね。
してるつもりでも、うまくできてないんでしょう。
だから「失敗しろ〜!」と他人に言っているつもりでも、本当は「自分よ、失敗しろ〜!」と思っているのと同じだ、ということになる。
これは。
非常に危険です。
「悪願」は、自分へ戻って来る鋭いブーメランだったんです。
危ない危ない。
そう言えば、絵とか映画とかで見る「呪術を操る魔法使いのおばあさん」とかって、あんまり幸せそうじゃないですよね。
人を呪わば穴二つ。
すでに、古い慣用句に言ってありました。
他人よ、悪くなれ!と願っても、自分が良くなることはありません。
他人よ、良くなれ!と願ってこそ、自分も幸福になれる可能性がある。
これ、一つの、ほがらかに過ごすコツかも知れませんね。
善い願い。
それだけで良い。