「安全より安心を優先しろ」は寝言か?というタイトルで、書いたことがありました。
「科学が風評に負けるのは国辱」とまで言われた福島原発事故以来の情報伝達や不安煽情。
その後、築地から豊洲移転に至る過程でも「安心と安全」については語られ、しっかりとしたわかりやすい説明も、随所に見られました。
小池都知事、「安全だが安心ではない」の欺瞞
「情」に乗じて扇動する手法には限界がある
https://toyokeizai.net/articles/-/163867
小池知事は「築地は土壌がコンクリートで覆われており、安全安心だと宣言できる」と言い切る一方、豊洲については、「法令上の安全性は確保されていても、安心とは言えない」との主張を変えていない。
わけわからんぞ(最近は横文字チンパンジーなんて言われたりしてしまってる小池都知事)…。
「安全」には客観的な数値があり、科学的な根拠が伴います。
科学的な見地からこう決めて、それより上だったり下だったりするので、誰がやってもこの数値になる以上、安全だと言える、または言えない。
「安心」には主観的な感情だけがあり、科学的な根拠は無意味です。
安全だと書いてあるが、よくわからない。
陰謀やミスや隠蔽があるだろうし、完璧にゼロになるまでは安心できない。
これを、逆から考えると、
安全の場合は
科学的な数値が異常を示している。いくら表面上、大丈夫のように見えても、これを安全だとは言えない。
安心の場合には
基準や数値についてはよくわからないが、お昼のテレビで親近感のあるタレントさんらが喜んで勧めている。うん、安心して使えると思う。
みたいな感じになるんですね。
「安全と安心は違う」という単純で明快な真理はもう、広く行き渡っている…と思いきや、ぜんぜんそうでもないことがコロナ禍でしっかりまた、確認することが出来ています。
100%安心じゃないと嫌!だという人は、原発事故後や豊洲移転騒動以後に、学んで賢くなったわけではなくて、テレビで煽られなくなったから忘れてただけ、だったってことですね。
新型コロナで「恐怖の殺人伝染病!今日も感染は増加!!」煽られた結果、またもや
「100%安心じゃないと嫌!」が首をもたげてきた…という感じ。
「安全なので安心」が正しい心理的な順序です。
「安心なので安全!」だと、戸締りしたと信じ込んでるから大丈夫!ということになり、「うかつなだけ」っていうことになってしまいます。
安全は安心の理由になり得ますが、安心は安全を意味するとは限らない。
安全をセーフティ(safety)、安心をピース・オブ・マインド(peace of mind)だとすると、やはり個々人の心の問題になってくるので、同じように見えますけど、「客観的な基準」が重要になってくるということですね。
安全な基準値をクリアしています!といかに書かれた食品であっても、個人の判断でそれを毎日毎食食べまくってしまえばなんらかの不具合が体調として現れる…知らんがな…っていう。どんな状態であっても100%何も起こらない、心配「0」な状況を企業や政府は作るべき…知らんがな…だってあなたがどれくらいアホかは計測のしようがないし…っていう。
ああ、なるほどの連鎖
最近、Googleの「Site Kit」というツールを当ブログに導入しまして、上の記事、「安全より安心を優先しろ」は寝言か?がちょこちょこ読まれてるなぁ、というのを知ることができました。
で、どうやって検索してその記事にダイレクトに訪問してる人がいるのか…も、なんとなくわかりまして。
見てみると「安全より安心を」で検索してる人がいる。
「安心より安全」ではなくて?逆じゃないの??
今回書いているような内容のことを確認したいがための検索、かもしれませんよね。
これだけ、「安全と安心は違うよ」と書いてくれている人が日本にはたくさんいて、検索結果にも現れてるんだから、とりあえずは安全(安心ではない)だとは思います。
そんな中、はっきりと「安全より安心を!」と書いてらっしゃるブログ主を発見しまして(リンクは貼りません)、あ、なるほど…!そういう順番で考えるのか…と大変参考になりました。
欲しいのは「まず安心を!」なのだそうです。
「安心することはできる」とは、自分を信じることから始まる、という意味なのだと思います。
2枚の布マスクを配られても、安心はできない。
「国会議員にも配られて、10万円のバラマキにも反対」なのだそうで、ここは典型的な「アベノセイダーズ」化してる感じがすでに微笑ましくすらあるのですけれど、ポエム化したその文章からは「とにかく安心させてくれ!」という悲痛とも言える、幼稚な叫びが読み取れます。
おそらくこういう人って「はいどうぞ」って個人口座に1億円配られたら黙るんですよね…。
それはともかく、
マスクが店頭にないから安心できない
↓
布マスク2枚は役に立たない
↓
どうせ政治家は悪いことしてる
↓
心の平和が来ないのは飢餓感があるため
という順番で考える思考回路が、強固になってる感があります。
なんというか、「自分をすごく信じてる感」が強く出ているなぁ、と思いました。
でもそこには「安心したい」ではなくて「安心させてくれ」という、人頼みな感情があるんです。
安心は「する」んじゃなくて「させてもらうもの」なんだと。
安心できないのは「人のせい」なんだと。
遠回しに言えば「アベのせい」なんだと。
安心のために、普通はその補助線として「安全」を利用するんですけど、こういう人らの場合は「絶対安全じゃないとだめ」ということを、変な角度で固定してしまってるので、「安全」を最初から、軽く見てるってことなんですね。
これやってる限りはなかなか、安心はやってこないでしょうねえ。
「絶対安全じゃないとだめ」なのに、よく平気でバス・電車・自動車・自転車・飛行機・エレベータ・エスカレータに乗ってますよね…。乗り物なんて、それこそ「絶対安全は絶対にない」と言い切れるものですよ。
そこは無視…きれいに無視。
つまり「人のせいにできるところを、それらしく不安っぽく言いたい」という心理なんですね。
いや、このブログ主を批判したいわけではぜんぜんなくて、ああなるほど「安心は自分でできることだから、そっちの自分の気持ちの方がまず優先なんだ」という順番で始まってるんだ…ということがわかった、という収穫があります。そこから始まってるんだから、そりゃ終わらない地獄のサイクルだわな…っていう。
上にも書きましたが、安全には科学的な根拠が伴います。
なので、あるていど謙虚にならないと受け入れられないんですよね。
心配はあるが、グリズリー遭遇率が0.002%ならまぁ大丈夫だろう、とか。
覚悟を自分で作って、腹をくくれる指針になる。
たとえば東京都の、新型コロナ陽性率は7.4%。
100人いると7人は陽性、ってことになる、と読めます。
東京都 新型コロナウィルス感染症対策サイト
モニタリング項目(4)
https://stopcovid19.metro.tokyo.lg.jp/cards/positive-rate/
※2020年12月22日 の数値です
だけどこれは「検査の陽性率」と書いてある通り、検査人数に対しての陽性率、なわけですよね、当たり前ですけど。検査する人数が増えたら、陽性の人の数が増えるのは当然。
大事なのは「陽性だったらどうなの?」「そこからどうなるの?」なんですけど、「100人に7人が恐怖のコロナに…!スーパーなんか行って100人お客さんがいたらそのうち7人がコロナに…!怖い!死ぬ!不安!」ってなっちゃう。
コロナは死ぬのか
死者発生率、東京都だと1.10%なのだそうです。
岩手県だと5.37%。
岩手の方が、東京より5倍、死にやすいんですかね??
死者の数を見ると(2020年12月21日づけの記事です)、
東京…566人
岩手…18人。
うん、分母って大事ね。
コロナ「死亡率」5・37%、全国で最も高いのは岩手県
https://www.yomiuri.co.jp/national/20201221-OYT1T50088/
この記事のタイトルは、煽ってますからね。
こう書かれると「100人のうち5人以上は死ぬ病気、それがコロナ」って言ってるのと同じです。ひゃあ怖い!って思ってもらおうとしてる意図が、すごい。
どんな病気だろうが、感染の可能性を100%防ぐことなんかできないでしょう。
どんな病気だって罹ったら重症化しない方が良いに決まってるので、ちゃんと対処はしたいし、それなりの防止策も打ってはおきたい。
濃厚接触は絶対しないようしてます!
イベントにも一切、参加しません!
会食なんてもってのほか!
マスク絶対!
フェイスシールド必須!
マウスシールドも備蓄!!
…だけど、落ちてるものは拾って食べちゃうんですよね〜…っていう人がいたら、お前はアホなのかっていうことに、なりますよね。
割と、それに近い滑稽なことが起こってるなぁと感じる、今日この頃。
「安全より安心を!」は、言ってる1秒くらいの間だけ、なんだかモノを考えてるように感じることができる不思議な魔の呪文なのかもしれません。
石橋を叩いても渡らない理由としての「100%安心」は、ものすごい矛盾を抱えた「いきあたりばったりの叫び」でしかなく、迷惑な「自分がかわいくて仕方がないタイプ」に張り付いた、漢字をちゃんと識別できない宿痾なんじゃないかなとすら、思えてきました。
今回は以上です。