「ポピュリズム」と「ポピュリスト」という言葉を聞く時、たいてい、すごく否定的な言われ方をしているのが目につきます。
試しに、ツイッターで「ポピュリスト」で検索してみると…ここで列挙するのはやめときますが、ほとんど罵詈雑言とセットになっているかのような有様です。
トランプ米大統領、石原慎太郎、安倍晋三、小泉純一郎、橋下徹、名前の出てくるタイミングはそれぞれ違うものの、その思想の左右や政策論の是非を問わず、一流の論者もこぞって「ポピュリストは…」とか「ポピュリズムの最たるもの…」的な、うんざり感を前面に押し出した言い方をする。
「やっぱりポピュリストでなくっちゃ!」とか「そんなのポピュリズムでやっちゃえばいいのよ!」とか平野レミさんみたいなノリで肯定的に使ってる人は、まずいない。
でも、「ポピュ」が入ってるくらいだから、
「ポピュラー」と同じことだというのはなんとなくわかりますし、
その「ポピュラー」にしてからが、
なんとなく「ピープル」を語源にしていることは、わかりますよね。
え、でもそれだったら、人々の人気を得て当選した政治家はみんな「ポピュリスト」ってことになるんじゃないの?
なんでそんなに否定的に言われてしまうだろう…?
そういえば上に挙げた政治家、皆、熱狂的な人気のあった人らばかりですよね。
いわゆる「有名な政治家」。
もちろん、強硬な反対派がいることや、敵が多いことも知られている。
政治の現場での、(制度として対立する)議会などとのせめぎ合いも、「市民の支持」や「メディアを味方につけて」乗り切ってきた感がある。
おそらくその辺りに、「ポピュリスト」「ポピュリズム」が批判されるポイントがあるようだな…と。
で、この本を読みました。
これ、まさに「ポピュリズムを考える」上での基本的ラインに沿った本のようで、常に売り切れているような感じです。
今見ても、Amazonに新品の在庫がない(電子版はある)。
楽天で見ても、ない。
中古はあった。
|
実は私も、最初楽天で注文したんですよ、楽天ポイントで買えるなと思って。
でも「いつ出荷かわからん」みたいなお知らせが来て、ああだったらAmazonで買うわいとキャンセルして注文し直したのでした。
難しくややこしいテーマではあるものの、2011年発行で未だに品切れということは、それだけ重要だと思われているということですよね。
電子書籍で持っておくとよいと思います、それならすぐ買える。
何度も読み返すようなもの、だと思いますし。
民主主義のことを考えなきゃダメ?
読んだ感想なんですが、それと合わせてメディアでの使われ方やとらえられ方を見ていると、「このポピュリストが!」という言い方にはどうも、やはり「この人気先行の独裁者が!」というニュアンスが含まれていることが確認できます。
やはり、我々は「正義」と信じて疑わない民主主義というものを、考え直さざるを得ないということに直面させられるということでもありますよね。
だって上にも書いたように、人気があって得票数が多いからこその、選挙の結果としての代議士だし、なんで、人気があるからといって「このポピュリストが!」と吐き捨てるように言われなきゃならないのか。
なぜ「ポピュリスト」が批判的に使われるのか。
そしてそれは、意味のある、建設的な批判なのか。
「人気がある」「支持されてる」ことに対しては、誰も悪いとは思わないはずなんですよね。
まず政治家なら、政策が明らかに間違っている場合には有権者は支持しない、という当たり前の条件が、実は100%ではない恐れも含んでいるけれど、ありますよね。
例えば現実的に、今、「竹島だけでなく、佐渡島も韓国に譲渡します」という公約を掲げる国会議員候補者は、当選しないと言い切れますよね。
公約はどんなものを公約にしたって自由ですけど、「いやぁ、それでは当選できないでしょ…」っていうような公約は、掲げないというだけです。
何回も選挙に出るけど絶対落選する人っているじゃないですか。
あれを見てもなんとなく、有権者の「良識」みたいなものをしっかり感じるし。
でも、「年収600万円以下の世帯の所得税を、0にします」とかいう公約とセットなら、どうでしょう。
これは古今東西、常に巨大な人気を得て来た政治家に多いパターンのようですけど、昔、選挙権って全員にはなかったわけです。
日本だけを見ても、1925年(大正14年)に、やっと「納税3円以上」という条件が外れた。
しかもこの時点ではまだ「25歳以上」の「男子だけ」です。
これが「20歳以上の男女」になるには、太平洋戦争の敗戦を待たなければなりません。
こういう時に、女性と、20歳〜24歳の男性を味方にするにはどうすれば良いか。
上に挙げた、「竹島・佐渡島割譲」にプラスして「女性・20歳〜24歳の男性は免税!」という公約を、掲げればいいんです。
そうすれば、「女性・20歳〜24歳の男性は免税」は、みんなその人に投票しますよね。
なんせ、自分たちの利益を代表してくれているんだ!感がものすごいから。
そこにくっついている他の公約なんて、あんまり気にしない。
そうして、「民衆の支持」を得て当選し、議員になり「国民が求めている」という論法で「竹島・佐渡島割譲」を実現させてしまう。
こういうのを「ポピュリスト」のやり方と言うのではないでしょうか。
反対するのはエスタブリッシュメント、既得権益を持っている側だ!と批判されたりして。
トランプ大統領が選挙に勝ったのも、言ってみればそういう支持層を取り込めたからではないでしょうか。
古代ローマでも「小麦法」の適用を巡って、どのあたりの層までにその低価格購入を認めるか、で揉めたり、人気を得たり、色々あったそうですし。
いささか乱暴ですが、自分の暴論を通そうと思った時に、
人気と作戦で支持を得、さらにメディアを使って宣伝をして、多数を味方につけて実現してしまう。
このやり方を「ポピュリズム」と呼ぶのでしょう。
つまり良いこともあれば、悪いこともある。
上の本「ポピュリズムを考える 民主主義への再入門 」には、「ヌエ的」と書かれていました。
確かにわかりにくい。
※wikipediaより。
鵺(ぬえ)。サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足を持ち、尾はヘビ。
今もそうなのでしょうが、「多数決の世界」を我々は、正義だとなんとなく教えられて育って来た感があります。
独裁より、多数決なんだと。
主権在民が国の基本なんだと。
それはたぶん間違ってないと思うんですが、「多数決は恐ろしい」ということについては、教えられてない気がします。
高校だったか中学だったか、担任に「多数決が絶対に良いという理由」を尋ねたら黙ってしまったことがあり(私がややこしい生徒だったわけではありません)、ああ、そういうものなのかな、と漠然と思っていました。
それ以来、誰との話す機会なく来てるし。
こういう話を聞きました。
あるマンションで、エレベータが壊れたとのことで、住民会合があったと。
1階の住人たちが「エレベータを使うのは1階以外の人たちだから、修理費払いたくない」と言い出した、と。
確かにエレベータは1階の人はまず使いません。
私も1階に住んでいますが、エレベータがあることをまず意識してません。
1階、いいですよ。
すぐに外へ出れるし。
防犯だなんだと言われたりもしますが、「バカと煙は」というやつで、資産価値のためとは言え、すごい高層階に住んでる人って、ばかなんじゃないですかね(大変失礼をいたしました反省しています)。
「エレベータを使わないから」ということで修繕費を出すのを拒否した1階住人に、その他の階の住人は猛反発。
怒り狂って「多数決を!」ということになり、結局「エレベータの修繕費は、1階の住人がすべて負担する」が可決されてしまった、と。
そんなバカな…。
多数派はとうぜん、「1階以外の階の人」な訳ですから、多数決だとこれが可能になります。
この多数決って正義でしょうか?
多数決は、道理を超えた、暴力的な結論への可能性を秘めているんです。
このエレベータの場合は、やはり冷静になればどこかで調停が行われる可能性はあります。
1階の人の負担は少し軽減してあげるから、とか。
同じマンションに暮らす以上、「エントランスは負担するが、エレベータは知らん」はやはり身勝手すぎると言われても仕方がないし、マンション全体の不利益を呼び込んでしまう可能性がある。
1階に落ちているゴミは1階の人が拾え、と言うことになってゴミを置いて行かれたら困りますしね。
多数決は、少数派を壊滅させるためにあるのではないのです。
多数の意見を全体の意見とするという時には、「多数決を取ります」の時点で「少数派の意見も尊重しますよ」と言う部分が盛り込まれていなければならない。
少数は切り捨てる、となると対立しか残らない。
時間の制限と、資源の制限と、能力の制限の、ギリギリのところで、現時点での最善とされている「多数決」ですから、決まってしまえばそれには従わなければ、秩序は保てません。
牛歩で稼ぐポイント
「牛歩戦術」ってありますよね。
もう、数では勝てない議員が、ただ投票するだけなのに、ノロノロと、「牛の歩み」で決議を遅らせる、っていうやつ。
あれ、やってる国会議員って、自分の支持者に向けて「だけ」のパフォーマンスしてるわけでしょ。
社会党、共産党が支持者へのアピールでやってた。「我々はこれだけ抵抗したんだ」と。
「牛歩戦術」をやってた議員は支持できません。
自分の「やってます感のために」、国民の時間を、奪ってるんですから。
法案の内容や、決まってからの運用なんかより、自分らのメンツとパフォーマンスを重視してる。
最近では山本太郎議員が一人で牛歩をやってらっしゃったのですが、国民注視の国会で、役者としてはさぞ気持ち良かったでしょう。
ちなみにその時の格好は喪服姿。
左手に数珠を持ち、壇上では焼香のマネをしてました。
「自分の意見を主張するのに葬儀コスプレするやつはクズ」と相場が決まってるので、反原発のデモで葬式コスプレしてる連中と同じで、ああ、あくまでも自分のためにやってるんだなぁ、という感想が魂の奥底から漏れてくるのであります。
ああいう人らは、絶対に多数を取ることはありません。
政治活動をしているような人らと違って、不思議なもので一般の人らには「ああいうのは胡散臭い」と、見分けがちゃんとつくんですね。
目立っている人を取り上げればとりあえず時間と紙面を稼げるメディアと、自分らのやってることすらよくわかっていない活動家の人らには「どうして支持されないのか永遠にわからない」んですよね。なんだかかわいそう。
でも彼に、「ポピュリスト」の種はあります。
既存の政治と、既存の権益を持つ人たちを攻めるという「ポピュリスト」の基本。
これが、現今の政治的な手続き(専門家やプロへの根回しで、多数派を形成する)を経ないで、一般の「人々」の圧倒的支持を得る。
メディアを通して「あの人は頼れる」「やってくれる」という信用を得る。
今は、既存の政治を批判する論拠が「バカにされて当然」な部分なので庶民の支持は得られませんが、構造としてはあり得る話なんですよね。
2017年、衆議院選挙に、「殺せ」の長谷川豊さんが立候補するとのことで、「ポピュリズム」と「ポピュリスト」について、ちょっとだけ考えてみたのでした。
「殺せ」ブログの長谷川豊氏、維新公認で衆院選出馬か 記者会見を予告
http://www.huffingtonpost.jp/2017/02/05/hasegawa-yutaka-press-conference_n_14628452.html
「殺せ」ブログていうのもなかなかにひどいけど。
要するに「ポピュリズム」は、濃淡と振り幅のある、「悪い政治現象ではない」と言えそう。
でも「ポピュリスト」は、過激な言葉と明確な「敵認定」で、「なんとなく強そう」な印象でリーダシップありげに見える人、っていう定義ができそう。
最後に、「ポピュリスト」と言われまくっていた橋下徹さんが、既に「幼稚園児にもできる政治批評」と切って捨ててらっしゃいますので紹介しておきますね。
橋下徹「メディアの薄っぺらな『ポピュリズム』批判はなぜ危険なのか?」
http://news.livedoor.com/article/detail/12737228/