般若心経が、「偽経」扱いされてるんだそうです。
基本的に、仏教はインドでお釈迦様から始まったこと。
インドから、中国を経て、今は日本で「仏教」と呼ばれていますが、日本でやっている「仏教」関連のことは、お釈迦様とはなんの関係もない、全くかけ離れていることだと言っていい。
「無宗教」と言われる日本人ですが、それは、自分が信仰している宗教について、なんら教えられていないからです。習っていないからでしょう。
で、いきなり身内が死んだ時に坊さんが現れて、何たらかんたら、デタラメの宗教観を押し付けていく。こちらには知識がないから、「極楽浄土がうんたらかんたら」と言われても、そのまま飲み込むしかない。
深夜の賢者タイムww
この間、深夜にローソンへ唐揚げを買いに行きまして、目に止まったこの本をいきなり買ってしまいました。
ほう。
おとなの?
少し前に、「セクシィ仏教」という本を読みました(ラジオで紹介もしました)が、その類い?
唐揚げ買わずに、これだけ買って帰りましたw
店員さんは不思議に思ったかもしれませんね。深夜3時に「おとなの仏教入門」を買う男。
でも、コンビニってそういう場所でしょうw???
読んでみると(深夜3時半くらい)、いきなりこういうところから始まります。
お葬式。今の日本の仏教は、まさに「葬式仏教(←半分悪口ですw)」。
葬式なんぞは、死んだ本人には本来、全く関係のないこと。
まさに「とむらいの式」のことですから、「どうやって悟りに至るか」を語った釈迦は、「あほかお前ら。死ね」と中指立てるんじゃないかというくらい、意味を履き違えているんです。
でも我々の生活に密着した「仏教行事」であることは間違いないんです。
とはいえ、宗派もいろいろあるし…。
この「おとなの仏教入門」では、いろんな宗派のことを説明してくれています。
簡単にわかるように書いてくれているので、概観をつかむのには良いと思います。
499円+税、ですし。
で、最後に、「般若心経」のことが書いてあります。
なぜ、このスーパーメジャーな般若心経が、「偽経」扱いされているのか。
仏教は、インドで生まれたもの。
釈迦が死ぬにあたり、仏弟子たちが「師匠が語っていることを、書き残していいですか」と問うと、お釈迦様は「いいよ。でも、文語体で書くなよ」と言ったんだそうです。
当時のお釈迦様は説法するのに、普段の話し言葉で語ってくれていた。
それを、格式高い文語調で書くんじゃねえぜ、と釘を刺したんですね。
当時の文語体が、変遷して、今はサンスクリット語として残されている。
お釈迦様が「やるなよ」と言ってた、「文語調」で残されてしまっている。
中国に渡ったあと、それが「漢文」に訳されて、さらなる「文語調」に変化しているんです。
さらに、「お釈迦様が語った」事実とは別に、どうやら、「中国で、中国人によって作られたお経」というものが存在する。これを「偽経」と呼ぶそうです。
そこからまだかなりの時間が経ってから、日本に伝来するわけです。
日本に来たころ(聖徳太子とかの時代)には、すでに仏教はすっかり変質してしまっていた。
だいたい、中国には仏教のように「家を捨てよ」なんていう思想は、合わないんですよね。「家が大事」な「祖先信仰」の地域ですから中国って。
そういう歪み方をしたのが、さらに日本に来て変化していったんでしょう。
「般若心経」を書いたのは、どうやらあの「西遊記」の三蔵法師だそうですが、他にもいろんな「偽経」が日本で勢力を大きくして、今の「葬式仏教」に影響を与えている。
おそらくお葬式でお坊さんが語ってくれる「法話」の類も、全てそれらが元になっています。
良いお話も多いので、「それはそれ」だと思います。
ただし、「釈迦とはなんの関係もない」と思っていないといけません。
「般若心経」の「超訳」がついていました。
冒頭部分を見てみましょう。
「超訳」には、
ある日、お釈迦さまは、修行僧シャーリプトラに語りかけました。
「観音様をはじめとして、菩薩と呼ばれている修行者は、皆『般若波羅蜜多』の修行を完成させて悟りを開いた」
と書いてあります。
ンンン?と思いませんか?
シャーリプトラはシャーリプッタとも呼ばれる、仏弟子の中でも上級の人。覚者です。般若心経の中では「舎利子」と書かれている。あんまりいい書かれ方じゃないようなw
手塚治虫の「ブッダ」では「サーリプッタ」と書かれていますね。
この人、お釈迦さまから後継者に直々に任命されるほどの人です。
「悟り」という意味では、悟った人です。上にも書いたように、「覚者」です。いわば、ブッダです。「ブッダ」とは、「目覚めた人」という意味なので。
そのシャーリプトラ(サーリプッタ)に、「菩薩と呼ばれている修行者は…」と説いている。
菩薩というのは、悟りに向けて、修行をしている人。
まだまだ、修行の途中の人です。全然、悟りに遠い段階の人です。
仏像でいえば、首飾りとか、冠とか、宝飾品をたくさんつけているのが「菩薩」です。悟りへの修行レベルでいえば、かなり低いのです。
そんな低レベルな「修行者」を引き合いに、すでに「覚者」であるシャーリプトラに「悟りを説く」…。
この、「般若心経」じたいが、「なんか変な前提」で始まっているような気がしてなりません。
そしてもう一個。
それは「色即是空空即是色」の部分。
しきそくぜくう・くうそくぜしき、と読みます、有名な部分です。
これは「色(しき)、即(すなわ)ち是(こ)れ、空(くう)である」ということを言いたいんですね。
そして「空(くう)、即(すなわ)ち是(こ)れ、色(しき)である」と。
反対の言い方を連続して使って、「色=空」ということを強調して言いたいんでしょう。
でも、これって変だなぁと思います。
「色(しき)」は「色欲」とかの「色」でしょ?
だから、「色なんてものは、あってないようなもん(空)だよ」というニュアンスはわかります。
でも、「空(くう)、あってないようなもの、それが色(しき)だよ」っていうのはおかしくないですか?
逆は成立しないんじゃないでしょうか。
「フェラーリ、すなわちこれ、自動車である」はわかりますが、
「自動車、すなわちこれ、フェラーリである」は納得できないでしょう。
フェラーリは間違いなく自動車ですが、「自動車!」と言われたら、必ずしもフェラーリではないでしょう。
ポルシェもあれば、フェアレディZもあるし。
つまり、「空」の方が概念として大きいんだから、「色=空」と、イコールでは結べない。
「色即是空」は正しいけど、「空即是色」はおかしい。
「フェラーリ、すなわちこれ、自動車である」は正しいけど、「自動車、すなわちこれ、フェラーリである」と言い切ってしまうのは、もはや熱狂的なフェラーリマニアでしょう。
「般若心経」を作った玄奘三蔵は、なんらかの、違う思想を持っていた可能性があると思います。
そして、最後。
「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」。
ぎゃていぎゃていはらぎゃていはらそーぎゃていぼーじーそわか、と読みます。
これ、この本の「超訳」にも、
このことを忘れないように秘密の言葉を授けよう。『羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶』
って書いてあるんです。
訳せないんですw
つまり、「呪文」ですよね。
お釈迦さまは、「呪文」や「魔法」の類い、これら一切を退けよ、と言っていました。
そんなものはまやかしだと。
どうして堂々と、ありがたいはずの「般若心経」のラストに、こんなにはっきりと「呪文」が書いてあるんですか。
こんなものが、「仏説(仏が語った)」なわけがない。
どうやら、「般若心経おかしい説」が定説になりつつあるのはそのあたりが理由でしょう。
…とはいえ。
毎日あげてるお経が、信じて頼っている仏様が、自分にとって良い影響を及ぼさないわけはありません。
間違っていようが、なんだかおかしかろうが、「これはありがたいのだ」と信じて行うことには、強く正しいパワーが宿ると思います。
だから、読経するお坊さんを全員シバいていけ、とは思いません。
凄まじい「超訳」を始め、いろんな解釈をすることが可能だからです。
でも、この、「解釈自由」になった理由は、漢文に訳して、漢字の意味や熟語の意味を、いろんなパターンに読み取ることができる「文語調」にしてしまったからなんです。
上にも書きましたが、これこそが、生前のお釈迦さまが恐れていた事態。
まぁ、「イワシの頭も信心から」って言いますからねえ…。
今回注目した部分を、全文の中で、色をつけておきますね。
般若心経全文
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶般若心経
せっかくなので年越しは、これを読んで過ごすことにします(30日に届く予定)。
ではみなさん、良いクリスマスを…www!!!