急に夜に、横浜へ行ったりします。
いや、何もカッコ良くはないんですけど、「横浜へ行く」ということ自体に、妙な価値を感じているのは確かだったりします。
少し前に鎌倉へ行ったりもしましたが、関西の田舎で育ってると「横浜」とか「鎌倉」とか、ついでに言えば「青山」とか「表参道」とかいう都市は、情報としてはよく見聞きするけれども実際にあるのかどうかは確認のしようがない、いわば「ロンダルキア」とか「アリアハン」とか「サマルトリア」とか、ドラクエに出て来た街と同じように、ドラマや漫画の主人公たちが登場して想像するしかないような場所だったんです。
小学6年生のある時、好きなミュージシャンのことを考えていて「あれ…?今この時間に、あの人ってどこかで、何かをしながら過ごしてるんやんな?」
と急に強く感じたことを覚えています。
永ちゃんのことではなかったけど。
ふだんは架空と現実の間を勝手に区別して意味を感じていなかったことが、実は地続きでつながっていたのか!と、子供だけに、内面に小さな衝撃が走った瞬間でした。
それからはなぜか「あの人も、人間だから」と、誰に会ってもそんなに緊張しなくなったような気がします。
関係ないですけど、アーチェリーとか弓道とかを嗜むと「この街で今歩いている人ら、全員オレの射程距離内だから」とか思うらしいですよ。
変な理由でもいいから、自分に根拠のない自信を持つことは、大事なような気がします。
横浜の、「みなとみらい」という区域。
MM21、と表記されることがあります。
21世紀の、港の未来都市、という意味なのでしょう。
「港」で「未来」なら、アルファベット表記はPF21(Port Futureなんだから)が正しいと思うのですが、それはまぁいいか。
ここに、蔦屋とスターバックスが渾然一体となった店舗(実際は整然と整理されています)があり、ここでは、書肆(しょし)としての機能と平行して「設置してある書棚に置いてある本は、読んでも良いよ」というサービスを行なっています。
そこには「ただしスターバックスでコーヒー類とかを買った客だけだぜ?」というルールがあり、ただ本を読んでいるだけ、の人はまずいないんです。
そのルールが通用しない人はここにはいない、と思えるので、一定の安心感と落ち着きがあります。
そりゃ、中には「タダだぜ〜」と食らいついてくるレベルの人もいるでしょう。
そういう人をある程度は受け入れても、運営が成り立つという読みがあるのだからフトコロが深い。
タダほど怖いものはないと言いますが、そういう「タダだぜ〜」に乗っかって、「得した!とにかく得した!出費ゼロ円!」とだけ感じる瞬間、自分の「徳」は著しく落ちる、と信じていいと思います。
「なぜ、タダなのか」を考えないと、自分の徳は積まれない
その、「タダである理由」に、なんらかの形で報いる方法を考えないと、徳っちゅーのは積まれないんですよね。
私の場合、生まれながらにして「徳」が一つ積まれた状態(プロフィール参照のこと)なので、「徳」については常に決して忘れないというアドバンテージを1、有して生きております。
ありがたいことです。
「徳」を積むというのはよくわからない表現なんですけど、単純に「できるだけ、車列に入ろうとする車は前に入れてあげる」ようなことだと考えています。
合流して、1列になろうとする車の列。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12102340632
ここで、「一台も前には入れてやらない」と、ブロックしているやつはアホなのです。
無徳点です。
なぜか。
「車列が合流する」という構造は、道路がそういう形になっている以上、変えることができません。
合流する宿命は、変更不可能なのです。
そこへ自分が走って来た以上、「合流のパーツ」になるのは宿命づけられているんです。
だから、それに逆らうのはアホのすることなのです。
宿命が理解できたなら、最も円滑に合流を進める方法は「ファスナー」を思い出すことです。
つまり、「一台ずつ」流れに入っていく。
これが、最も合理的で早く目的地につける方法です。
「いや、最も早くということはないだろう、前に入れない方が少なくとも車1台分、早く着くだろう」という意見もあるかもしれません。
これは、目の前しか見えてないアホ、なのです。
緊急車両のことを考えればすぐわかると思います。
後ろから救急車が来る。
サイレンを鳴らし、赤いランプが回っています。
道をあけ、先に行ってもらいますよね。
これはなぜか。
教習所で習った、からではありません。
そう決まっている、からでもありません。
「あの救急車に乗っているのは、いつかの自分(または家族)」だからです。
自分が救急車の邪魔をしたら、いつか自分が乗るハメになった時、誰かに必ず邪魔をされます。
これくらいのことがわからない人が、割といるのが現実なのだから悲しいですよね。
「自動車1台分」とかの速さを競っているのはアホだと思わないのでしょうか?
思わないんですよね。
それって幸せかな。
この回にも書きましたが。
公道走行はレースではないし、島の中をぐるぐる回っているに過ぎない我々が、「1台入れなかったら早く着く」とか考えるのはマヌケ過ぎます。
その分、いつか、ものすごく遅れるんです。
「無徳」どころか「減徳」だと言えます。
だいいち、そんなに早く着きたいなら、100台ぶんくらい早く出発すればよかったではないですか。
ここまで考えてみれば、「車列に入れてあげる」ことなどは「当たり前」のことであって「徳を積む」というような高尚な類いのことではないとわかります。
「積徳運転」とは言いながら、譲ってあげることは「いつかの自分(または家族)」のために、当たり前のことなのです。
「情けは人のためならず」というやつですね。
これは勝手な自分の目安ですが、「10,000台譲ってあげたら、いつか自分に、1回譲ってもらえるチャンスがくる」くらいに思っています。
そんなもんだろう、と。
こう思っていると、気がラクです。
人に道を譲ることは、偉くもないし立派でもない。
「ありがとう」の意味のハザードランプも、要りません。
早く目的地に着きたいなら、早く出ればいいだけです。
電車に乗って、「前の電車を抜かんかい運転士コラ」とか言っている人はいないじゃないですか。
歩行者にも似たような人はいますけど。
そして改めて、
「二十才まえにYOKOHAMAに生きてたら…」
なんていうことを、ファスナーを触りながら考えて、コーヒーを飲んでいる私であります。
あっ、本読んでいない。